こんにちは。タムラゲン (@GenSan_Art) です。
5月13日、地元の映画館にて、『シン・ウルトラマン』を妻と一緒に鑑賞しました。幸運にも、ネタバレを見る前に公開初日に見ることが出来ましたので、あれこれ思ったことを綴っていきます。
『シン・ウルトラマン』について
シン・ウルトラマン
Shin Ultraman
2022年5月13日 公開
円谷プロダクション・東宝・カラー 製作
東宝 配給
カラー、スコープサイズ、113分
スタッフ
企画・脚本:庵野秀明
監督:樋口真嗣
准監督:尾上克郎
副監督:轟木一騎
監督補:摩砂雪
音楽:宮内國郎 鷺巣詩郎
製作代表:山本英俊
製作:塚越隆行 市川 南 庵野秀明
撮影:市川修 鈴木啓造
照明:吉角荘介
美術:林田裕至 佐久嶋依里
編集:栗原洋平 庵野秀明
VFXスーパーバイザー:佐藤敦紀
録音:田中博信
整音:山田陽
音響効果:野口透
光学作画:飯塚定雄
主題歌:「М八七」米津玄師
ウルトラマン / 禍威獣 / 外星人 オリジナルデザイン:成田亨
出演
神永新二:斎藤工
浅見弘子:長澤まさみ
滝明久:有岡大貴
船縁由美:早見あかり
宗像龍彦:田中哲司
田村君男:西島秀俊
メフィラス:山本耕史
小室肇:岩松了
大隈泰司:嶋田久作
狩場邦彦:益岡徹
早坂:長塚圭史
中西誠一:山崎一
加賀美:和田聰宏
予告篇
公式サイト
あれこれ思ったこと
遂に実現した初代ウルトラマンの真の眼
『シン・ウルトラマン』が公開される前から、この作品に登場するウルトラマンの姿に私は期待していました。
2019年12月に庵野秀明が発表したコメントにもあるように、ウルトラマンをデザインした成田亨の意図が、最新の技術で忠実に再現されていたからです。
カラータイマーを排したこと以上に、個人的にはウルトラマンの両目の覗き穴が無くなったことを特に高く評価したいです。
初代ウルトラマンは作品もデザインも好きですが、あの覗き穴がまるで瞳のように見えてしまうことだけは長い間気持ち悪く思っていました。しかも、様々な媒体でのイラストでも、あの覗き穴が瞳のように描かれていたのを見る度にやるせなくなったものです。
ですから、作品そのものの出来とは別に、あの覗き穴が無い初代ウルトラマンを具現化してくれただけでも、私は『シン・ウルトラマン』が制作されて本当に良かったと思います。
作品についてあれこれ(ここからはネタバレあり)
制作に関する裏話や旧作へのオマージュなどは既に幾つもの書籍や記事などに記載されている筈ですので、実際に『シン・ウルトラマン』を見て個人的に思ったことを綴っていきます。
冒頭に『ウルトラQ』の怪獣がふんだんに登場して次々と撃退され、ウルトラマンがネロンガとガボラを退治するまでの序盤は息もつかせない怒涛の展開で、少年時代にウルトラ・シリーズに夢中だった私は手に汗を握って見ました。
ただ、ネロンガに対して田村班長が核攻撃の可能性を宗像室長からの電話で知らされるる場面は少しひっかかりました。『シン・ゴジラ』のように早口の台詞だったので詳細は聞きそびれましたが。
と、ここまでは序盤で、ザラブやメフィラスといった外星人が登場してからが作品の本題となっていきます。しかも、神永の正体がウルトラマンであることが暴露されるのが意外にも早い展開だと思いました。『ウルトラマンメビウス』などの前例があるとは言え、旧作ではハヤタの正体には誰も気付かないまま終わったことを考えると、主人公の正体が知られない状態での作劇は現代ではリアリティを持たせるのが困難なのでしょうか。
ともあれ、ウルトラマンが偽ウルトラマンと対峙する場面は、キャメラアングルやカット割りまで、かなり旧作を再現していましたので、大いに堪能しました。旧作で偽ウルトラマンにチョップを食らわせたウルトラマン役の古谷敏が痛がる仕草まで再現していたのには破顔しました。放り投げられた浅見を受け止めて救ったウルトラマンが闘う場面に宮内國郎の音楽が流れたときに高揚感は頂点に達しました!
「頂点」ということは、その後は下がっていったのかというとそうでもなく、違う意味で興味深く見ました。
特に、メフィラス役の山本耕史が意外なほどにハマっていました。勿論、他の出演者も好演していましたが、全員を食ってしまう存在感でした。加藤精三が声を演じた初代メフィラス星人よりも狡猾で食えない雰囲気を素顔のままで演じていたのには感心しました。
ザラブとメフィラスを見ている間、旧作のことを思い出していたのは勿論ですが、同時に『ウルトラマンメビウス』も思い出してたので、原点と続編とリメイクの三作のイメージが脳内でせめぎ合うという不思議な鑑賞体験でした。
映画公開前のポスターに「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン」というコピーが載っていた時点で、ゼットンとゾフィーが登場することは予測できました。ですが、まさか(「光の星」出身とは言え)ゼットンを操る「ゾーフィ」という1960年代の怪獣図鑑に誤って記述された設定のキャラで登場するとは完全に意表を突かれました。
スクリーン上ではゾーフィの色は銀と緑に見えましたが、実際は金と黒でした。スターマークが無いのは意外でしたが、トサカが黒くなっていたのは流石だと思いました。
そう言えば、映画を鑑賞中、何か物足りないと思ったら、ウルトラマンは一度も「シュワッチ」とは言っていませんでした。どういう意図なのかは知りませんが、中曽根雅夫の声が無いウルトラマンは、カラータイマーが無い以上に、いつもとは違うと感じました。
もっとも、『シン・ゴジラ』と同様に、人類が初めて銀色の巨人と遭遇するという物語なのですから、お馴染みの「シュワッチ」が無い方が未知の存在を感じさせていたと思います。
違和感で言うなら、長澤まさみが演じた浅見弘子の描写の方です。彼女が事あるごとに自分の臀部を叩いて気合いを入れる所をアップで見せる演出は違和感を通り越して不快でした。キャラの人物造形にも合っていませんし、ウルトラマンの映画にもそぐわないと感じました。どうせなら両頬を自分で叩く描写の方が良かったとも思います。グレゴルー・ガロッシュみたいになりますが(笑)
メフィラスによって浅見が巨大化された場面も、旧作の巨大フジ隊員のパロディであったにも関わらず、スカートのせいで居心地の悪い場面になっていました。又、フジ隊員を演じた桜井浩子の虚ろな表情がメフィラス星人に操られた感じを見事に表現していた点に対して、巨大化された浅見役の長澤まさみが普段と殆ど変わらない表情だったのもSF風味を削いでいました。
『シン・ウルトラマン』は、他の殆どの要素が巧みに現代風にアレンジされていただけに、女性キャラの描写がどこか旧態依然で品が欠けていたのが残念でなりません。(2020年から放送中のアニメ版『DRAGON QUEST ダイの大冒険』が、原作のお色気要素をかなり薄めても、作品そのものの面白さは少しも損なわれなかったことと対照的です)
もう一つ気になったのは、複数の禍威獣や外星人が出現する壮大な世界なのに『シン・ゴジラ』よりスケールが小さく感じてしまうことです。
色々と理由は考えられますが、地球規模の危機である筈なのに、描かれる場所や人物が限られているからかもしれません。
『シン・ゴジラ』は主に東京周辺を舞台としていましたが、多数の政府・自衛隊関係者に加えて多国籍の専門家も多く登場して世界中の人間が危機に立ち向かう様子を表現していました。
『シン・ウルトラマン』も『シン・ゴジラ』の世界観を踏襲しているように見えて、殆ど禍特対メンバーにのみ焦点を当てていて、政府の関係者は点景となり、多国籍の専門家は殆ど全く画面に現れず、一般市民の描写は『シン・ゴジラ』以上に希薄でした。
また、『シン・ゴジラ』は怪獣の存在しない世界に初めて巨大生物が現れるという物語でしたので、たまたま日本にゴジラが出現しても不自然はありませんでした。
それに対して『シン・ウルトラマン』では、なぜ禍威獣が何度も日本のみに出現するのか、という疑問が提示されていました。ですが、結局、その疑問に対する明確な回答は描かれないまま終わっていました。或いは、私は一度見ただけでは分からないどこかに仄めかされいたのかもしれませんが。
かつて『ガメラ3 邪神覚醒』でも、なぜ日本にのみ怪獣が出現するのかという疑問が提示され消化不良に終わりましたが、僅かとは言えギャオスは海外にも出現していました。近年の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』で多数の怪獣が世界中で暴れる様子が描かれていたことと比べても、『シン・ウルトラマン』は迫力ある特撮映像にも関わらず、意外と狭い世界のように見えてしまいます。
旧作でも主要メンバーのみに焦点が当てられていましたが、オリジナルの科特隊 (科学特別捜査隊) はパリに本部があり、世界中に支部を持つ国際的な組織でした。本編でも、海外支部の隊員が登場したり、外国を舞台にする回もありました。同じ日本を主要舞台にしていながらオリジナルの『ウルトラマン』は多国籍で近未来な雰囲気を醸し出すことに成功していました。
これは私の想像ですが、現実の災害との接点も作品のスケール感に影響しているような気がします。
メフィラスの科学力やゼットンの1兆度の火球は、シン・ゴジラの熱線の比ではない脅威だと理屈では分かっていても、ゴジラの方が遥かに脅威に感じられました。
いくら宇宙規模の破壊力とは言っても外星人の存在はあくまでも虚構に見える反面、シン・ゴジラは東日本大震災や核といった現実の脅威を連想させる分、よりリアルに感じられたのかもしれません。
もっとも、こうした部分は予算の制限が大きいので、制作者の責任というよりは日本の映画会社の規模や姿勢に原因があるのではないでしょうか。
ハリウッド規模の制作環境さえあれば、庵野と樋口のタッグでレジェンダリーのゴジラ映画にも負けないスケールの作品が出来たかもしれないのに、と思ってしまいます。
ですが、同時に、そこが『シン・ウルトラマン』の限界なのかもしれません。『シン・ゴジラ』より狭く見える世界でなければ、現実世界の人類の矛盾が否応なしに観客の意識を圧倒してしまいます。そうなるとメフィラスやゾーフィの論理に反対するとしても、人間を愛するのなら、なおのこと戦争や悪政などで人間を虐げている人間こそウルトラマンの本当の敵であるように見えてしまうからです。
それは、旧作の「故郷は地球」さえ通り越して、『帰ってきたウルトラマン』の「怪獣使いと少年」にまで行き着いてしまいかねない事態になります。
初代ウルトラマンが最初に地球を訪れた1966年の楽観的な雰囲気と、様々な問題が隠しきれなくなった2022年の現代では、作品を取り巻く雰囲気が大きく変わりました。たとえ『シン・ウルトラマン』を純粋な娯楽作品として鑑賞しようとしても、物語が人類の矛盾に触れてしまっている以上、この違和感を感じることなく見ることは私には困難です。
あれこれ思うことを綴ってみました。まだまだ語り足りない部分が多いですが、今はここまでにしておきます。(後で気が向いたときに、加筆するかもしれません)
幾つか不満点もあり、『シン・ゴジラ』ほどの衝撃が無かったとしても、やはり『シン・ウルトラマン』は一見の価値はありました。成田亨が意図した通りの姿でウルトラマンがスクリーンに蘇ったのは快挙ですし、来年公開予定の『シン・仮面ライダー』も期待しています。
(敬称略)
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