『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』を劇場で鑑賞 ※『千と千尋の神隠し』はVHSで鑑賞

こんにちは。政府は「ごーとぅー」なんたらで国民を旅行させたがっているようですが、新型コロナウイルスはまだ収束していないので、主に自宅に籠っているタムラゲン (@GenSan_Art) です。

『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』を劇場で鑑賞 ※『千と千尋の神隠し』はVHSで鑑賞

今月は、地元の映画館で、妻と一緒に、宮崎駿の映画『風の谷のナウシカ(1984) と『もののけ姫(1997) を鑑賞しました。

 

新型コロナウイルスの影響で離れてしまった客足を呼び戻す企画として、6月26日からスタジオジブリの旧作『風の谷のナウシカ』、『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』(2001)、『ゲド戦記』(2006) の4本が全国の映画館で再公開されています。既にテレビで何回も放送されてきた作品ばかりですが、新作を抑えて興行収入のトップを占めるなど改めてジブリの人気の高さが明らかになりました。

私も妻も、宮崎駿の映画はテレビやBlu-rayなどで何度も見てきましたが、久しぶりに劇場で観る機会でしたので、気分転換も兼ねて足を運びました。

『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』ほどの有名な作品でしたら物語の内容は既に広く知られているでしょうし、制作の裏話なども数多くの書籍や記事に掲載されていますので、拙記事では私の個人的な鑑賞記と感想を主に綴っていきます。

 

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『風の谷のナウシカ』

7月1日(水)、『風の谷のナウシカ』を鑑賞しました。

36年ぶりの劇場での鑑賞

劇場での鑑賞は初公開以来36年ぶりとなります。(妻は私より若いので、『ナウシカ』を劇場で鑑賞するのは今回が初めてでした。) ダイナミックなアニメーションや、声優達の名演、久石譲の感動的な音楽など、スクリーンで見る迫力は今も全く色褪せていませんでした。

1984年3月11日(!)に公開された『ナウシカ』は、3.11の原発事故以降、放射能汚染の比喩として見られることが多くなりました。その上、新型コロナウイルス対策でマスクを付けながら映画を鑑賞する私達も、腐海の中で防毒マスクを付けている登場人物のようで、この作品が更に予言的になってきた感じすらありました。

『ナウシカ』を劇場で鑑賞していると、本筋とは別に、36年前に初めて観たときの記憶も蘇ってきました。ナウシカが王蟲の殻を火薬で焼く場面で男性客が「恐っ」と呟いたり、老人3人が戦車を乗っ取る場面で場内大爆笑の渦が沸き起こり、迫る王蟲から逃げるクロトワにも子供達が爆笑したり、などなど。

初公開時、私はまだ幼かったので『ナウシカ』のエンディングに単純に感動したのを覚えています。(余談ですが、王蟲の群れに撥ねられたナウシカを王蟲の触手が持ち上げる場面で流れる曲がヘンデルの「サラバンド」っぽくなるので『バリー・リンドン』(1975) を連想するようになってしまいました) 

その後、1997年に『もののけ姫』を観て、2012年に『ナウシカ』の原作を結末まで読み、改めて映画版『ナウシカ』を観ますと、確かにエンディングでトルメキア軍が撤退した後、全てが丸く収まる結末に無理があるのが分かります。かなり無理のあるハッピーエンドであるかもしれませんが、それでも映画版『風の谷のナウシカ』はこの時期の宮崎駿だからこそ出来た力作なのではとも思います。

原作と映画の相違点

前述のように、『風の谷のナウシカ』の原作全7巻は、2012年8月に一気に読みました。

実は、映画版は公開時に映画館で見て以来、ビデオやテレビなどで数十回は見てきたが、原作を最後まで読むのはこのときが初めてでした。

よく指摘されているように、1984年に公開された映画版は、当時連載途中だった原作の2巻までしか描いていません。

そこから7巻までの原作の展開は、映画以上に複雑で凄惨なものでした。

超能力を使うキャラが出てきたり、映画では悪役だったクシャナが悲しい過去を背負った人格者として描かれていたり、否定されるべき存在の巨神兵が原作では『天空の城ラピュタ』(1986) のロボットばりにナウシカと心を通じ合わせるなど、かなり印象が異なります。

話の内容は全く違いますが、黒澤明の映画『赤ひげ』(1965) と、その原作となった山本周五郎の『赤ひげ診療譚』との違いを連想しました。どちらも映画版では全てが丸く治まりハッピーエンドとなりますが、原作では(映画では死ななかった)重要なキャラが何人か命を落とし、人間の力では全ての問題を解決できない諦観のようなものが漂っていました。

『風の谷のナウシカ』の原作は、その混沌とした展開と結末も含めて、映画版で描ききれなかった宮崎駿の苦闘の軌跡でもあり、映画以上に壮大な物語でありました。

 

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『もののけ姫』

7月8日(水)、『もののけ姫』を鑑賞しました。

劇場での鑑賞は初公開以来23年ぶりとなります。『風の谷のナウシカ』と同様に、何度も見た映画ですが、スクリーンで観る美しさや迫力は段違いでした。登場人物の微かな汗や草木に付いた水滴など、繊細な描写は大画面で観るとより臨場感があります。又、エボシを庇う難病の老人の顔中に巻かれた包帯に涙が滲むのに初めて気付きました。映像の鮮明さは勿論、音響も初見のときよりよく聞こえる気がしました。

先程「23年ぶり」と書きましたが、2000年に『もののけ姫』の英語吹替版も高松市の劇場で見たことがあったので、実際には20年ぶりの劇場鑑賞になりますね。(同時上映は『もののけ姫 in U.S.A.』でした。) 因みに、クレア・デインズの声は、石田ゆり子よりサン役に合っていたと思います。モロ役はジリアン・アンダーソンでしたが、さすがに美輪明宏の代わりを演じられる人は誰もいませんでした。

アシタカは「暗い」か?

『もののけ姫』のメイキングの中で、宮崎駿がアシタカを「暗い」と何度も言っていたことに違和感を覚えました。礼を失せず、笑顔も忘れないアシタカは「暗い」どころか好青年だと思います。宮崎の発言は、他のアニメキャラが躁状態なほどに「ネアカ」だからでしょうか?

そう言えば、私が高校生のとき、『魔女の宅急便』(1989) の冒頭の曲を聴いていると、他の生徒が「暗い」と言ったのに驚いたことがあります。私は、ほのぼのとした優しい曲と思ったのですが。彼らは音域が高い流行りの歌ばかりを聴いていたから「暗い」と感じたのでしょうか?

ヴァンゲリスのアルバム『シティ』の「夜明け」を聴いたときも、「暗い」と言われたことがありました。確かに “Dawn”(夜明け)なのだから、薄暗い時間帯ですが、「暗い」=「陰気」というよりは、夜明け前の心地よい静寂に感じられるのですが私には。

伊福部昭 「テレビなんかで見てる限りでは、みなさん高い音域でヒョロヒョロやるのが多いんですが、あれでは心にこないんじゃないかと私なんか思います。その代わり暗いとか言われますが。まあ『ゴジラ』くらいになれば暗いもへったくれもありませんが(笑)」
ー『伊福部昭の宇宙』(音楽之友社)

閑話休題。

異色の時代劇

ところで、『もののけ姫』は大ヒットした一方で『天空の城ラピュタ』や『となりのトトロ』(1988) と比較して貶す声も少なからずあったのを覚えています。黒澤明のカラー映画に対する批判に似ていますが、黒澤も宮崎駿も自分の描きたい世界により忠実になってきただけで、二人の演出の冴えは決して衰えてはいないと思います。

『もののけ姫』が時代劇としても画期的なのは、宮崎駿の最も好きな映画が『七人の侍』(1954) であるにも関わらず、安易に黒澤映画の模倣をせず、蝦夷やタタラ場の人達のように普段は時代劇では描かれない人々を中心とした物語を構築したことです。しかも、以前のジブリ映画より難解な内容で興行的にも成功したのですから立派です。(もっとも、物語の終盤で首を失ったデイダラボッチが山嶺の向こうから姿を見せる場面は『七人の侍』の野武士襲来や、初代ゴジラの初登場を連想させましたが。)

ですが、『もののけ姫』以降も、日本の映画やドラマで武士や農民以外の人達を中心とした時代劇があまり作られていないように見えるのは残念です。大河ドラマでも殆ど戦国時代と幕末ばかりですし。(単に私が知らないだけかもしれませんが。)

和解し得ない自然と人間

又、宮崎駿の『もののけ姫』や、黒澤明の『夢』(1990) に対して「文明を否定すべきではない」という批判もありました。ですが、兵器や公害など科学の悪用が人間や地球に深刻な被害ももたらしています。必要以上に環境を破壊する人間が本当に文明人と言えるのか今一度考えてみる必要もあるのではないでしょうか。

因みに、シシ神の暴走は、宮崎駿が子供の頃に見て衝撃を受けた水爆実験のニュース映像の形象化でした。そう考えると、英語吹替版で、シシ神の首を掴んだジコ坊の “Everything’s under control.” という台詞が図らずも凄い皮肉に聞こえます。

『もののけ姫』は、自然と人間の相克に一時的な休戦をもたらすかのような結末で幕を下ろします。ですが、利便性の向上を求める人間が、自然を破壊・収奪し続けてきたことは、その後の現代に至る人間の歴史が証明しています。

この終わり方について、某評論家が「(現実と理想の)矛盾を解決しようと全力で奮闘しながら、ついに果たせなかった」としたり顔で書いていました。ですが、宮崎駿は『もののけ姫』制作前の狙いの中に「世界全体の問題を解決しようというのではない。荒ぶる神々と人間との戦いにハッピーエンドはあり得ないからだ」と明言しています。人口が増え、社会が近代化する以上、人間に出来ることは自然にかける負荷を如何に減らすことしかないからです。

森と人間との間で板挟みになりながらも両者が平和的に共存できる道を見つけようとするアシタカの矛盾に終わりが無いことは彼自身が自覚して受け入れています。そして、世界がその矛盾に満ちていることを隠さず堂々と描き切ったことこそ宮崎駿の真摯な覚悟であり、『もののけ姫』が今も鑑賞に値する傑作である証だと思います。

参考資料

『何が映画か 「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』黒澤明、宮崎駿、徳間書店、1993年

『出発点 [1979~1996]』宮崎駿、徳間書店、1996年

『もののけ姫』東宝株式会社、1997年

『別冊コミックボックス② 「もののけ姫」を読み解く』ふゅーじょんぷろだくと、1997年

『キネマ旬報 第1233号 臨時増刊 宮崎駿と「もののけ姫」とスタジオジブリ』キネマ旬報社、1997年9月2日号

『別冊コミックボックス③ 「もののけ姫」を描く、語る』ふゅーじょんぷろだくと、1998年

『ロマンアルバム アニメージュスペシャル 宮崎駿と庵野秀明』徳間書店、1998年

『「もののけ姫」はこうして生まれた』浦谷年良、徳間書店、1998年

『ロマンアルバム GHIBLI ジブリ』徳間書店/スタジオジブリ事業本部、2000年

 

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【追記】『千と千尋の神隠し』をVHSで鑑賞

『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』を続けて劇場で鑑賞しましたので、当初は『千と千尋の神隠し』も観に行こうと漠然と考えていました。ですが、諸々の事情で時間の都合が合わなかったので、今回は見送ることになりそうです。(因みに、私と妻は、2001年に封切られた『千と千尋の神隠し』を高松市のホールソレイユで鑑賞しました。当時まだ私達は出会っていませんでしたが、もしかしたら、どこかですれ違っていたかも?)

ただ、思わぬ形で『千と千尋の神隠し』を再び鑑賞することになりました。

妻が最初に購入したビデオソフトがこの映画でした。発売当初から、このソフトの映像が不自然に赤っぽいことがネット上で指摘されていたことを妻に話すと、確認してみたいと言うので二人で見てみることにしました。

7月16日(木) 午前1時頃、部屋の奥に眠っていたビデオデッキに数年ぶりにテープを入れました。冒頭だけ観るつもりでしたが、結局、午前3時半頃までかけて全編観てしまいました(笑)

『千と千尋の神隠し』のビデオソフトの映像は、やはり赤っぽい感じでした。(何故そうした色調になったのか知りませんが…) それに、地デジやBlu-rayの映像を見慣れた眼で観ると、VHSの映像がぼやけて見えることに二人で改めて驚きました。

とは言え、映画の壮大なイメージや物語の面白さに引き込まれていく内に、いつの間にかVHSの画質のことなど忘れていました。(因みに、鑑賞後、巻き戻しが出来なくなるなどビデオデッキが正常に作動しなくなりました。2002年に購入してから18年で遂に寿命を迎えたようです。合掌。)

ところで、『千と千尋の神隠し』には異なるエンディングが存在するという都市伝説があります。2001年に、私が高松市の映画館で『千尋』を鑑賞した際には、あの自動車が去っていくエンディングだったのをはっきりと覚えています。

幻のエンディングが実在するかどうかはさて置き、このあっさりした終わり方に対して、私の周囲にも不満の声がありました。『紅の豚』のエンディングもそうでしたが、『ナウシカ』や『ラピュタ』のような大掛かりな幕切れを望む人には物足りなかったのかもしれません。

ですが、私はあのあっさりとしたエンディングで良かったと思います。千尋が精神的に自立する道を踏み出したのは十分に描かれたのですから、その後の日常に戻っていく過程などをくどくど描くのは蛇足でしかありません。

宮崎駿が『千と千尋の神隠し』に込めた思いは沢山あるでしょうが、個人的に一番心に響いたのは「親からの自立」です。事実、宮崎は「子どもに向かって「おまえら、親に食い殺されるな」というような作品を世に送り出したい」と語ったことがあります。(『出発点』)

映画の結末で、千尋だけでなく坊も過干渉な親から精神的に自立します。前作『もののけ姫』と同様に、大人のせいで理不尽な環境に置かれてしまいながらも何とか生きていけるようになる子供を描ききった『千と千尋の神隠し』は、公開から19年経った今もその私達に多くのことを訴えかけてきます。

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