こんにちは、タムラゲン (@GenSan_Art) です。
20年前の今日 (10月28日) は、伊福部昭の歌曲《蒼鷺》と《聖なる泉》が初演された日です。
《蒼鷺》
蒼鷺
Ao Sagi (Airone grigio)
原詩:更科源蔵
作曲:伊福部昭
作曲年:2000年
編成:ソプラノ、オーボエ、ピアノ、コントラバス
2000年10月28日、東京文化会館小ホールにおける「「伊福部昭作品による」藍川由美リサイタル」において、藍川由美 (Sp)、トーマス・インデアミューレ (Ob)、岡田知子 (Pf)、黒木岩寿 (Cb) によって初演されました。
更科源蔵と伊福部昭
この歌曲の原詩「蒼鷺」の作者は、詩人でアイヌ文化研究者の更科源蔵です。更科は、1904年、北海道弟子屈村(現 川上郡弟子屈町)字熊牛原野にて、新潟県からの開拓農民の家に生まれました。関東大震災の影響で東京麻布獣医学校を中退後、帰郷して代用教員や印刷屋などの職を転々としながら詩作とアイヌ文化研究を続けました。詩集『種薯』、『凍原の歌』など著書多数。敗戦後には、北海学園大学教授、北海道立文学館の初代理事長も務めました。1985年9月25日、脳梗塞のため札幌で死去。
更科源蔵と伊福部昭は、1940年に北海道文化人の親睦団体「五日会」(または「五の日の会」) で知り合い、更科主宰の雑誌『北方文芸』を通しての交流がありました。
伊福部昭は、その生涯に、更科の詩を基にして四つの歌曲を作曲しました。《頌詩「オホーツクの海」》(1958)、《シレトコ半島の漁夫の歌》(1960)、《摩周湖》(1992)、そして《蒼鷺》です。そして、それらの歌曲の原詩は、更科の第二詩集『凍原の歌』に収録されていました。因みに、《頌詩「オホーツクの海」》と《シレトコ半島の漁夫の歌》の原詩は、それぞれ「怒るオホーツク」と「昏れるシレトコ」という題名です。
作曲と初演
実は、《蒼鷺》を完成させる10年以上も前に、伊福部は更科に作曲を約束していました。ですが、詩の内容と更科の人生が重く感じられたため、更科の死後も筆を進めるのが容易でなかったそうです。
ですが、西暦2000年を迎え、伊福部歌曲のみの3度目のリサイタルを開く藍川由美の委嘱によって伊福部は再び更科の詩に向かい合い、《蒼鷺》を遂に完成させます。
このリサイタルの前に、伊福部は次のように語っています。「蒼鷺は自分の信念を貫き、孤独に生きた更科自身の姿でもある。歌曲には表現者の人間性が赤裸々に表れるが、生の意味を問うこの曲では、人生経験も豊かな藍川さんを得て、とても満足している」(朝日新聞 夕刊、2000年10月26日)
藍川も「骨太な『蒼鷺』は、技巧に走りがちな現代歌曲の中では異色の作品。小細工が効かず、歌い手は裸で舞台に立つような怖さがある。伊福部作品に特有な、飾り気のない自然的な言語の重みを表現したい」(同記事) と抱負を語っています。
《蒼鷺》のオーボエ奏者は、1996年の草津音楽祭で藍川と共演したトーマス・インデアミューレ (Thomas Indermühle) です。当時、カールスルーエ音大の教授で、国際的に多忙でしたが、《蒼鷺》一曲のためだけに快く来日してくれたそうです。
伊福部昭と藍川由美
《蒼鷺》を初演した藍川由美は、香川県出身の声楽家です。
東京藝術大学大学院の博士後期課程を修了した翌年、「演奏家としての立場における『山田耕筰歌曲の楽譜に関する研究』」論文で、声楽(ソプラノ)の分野で日本初の学術(音楽)博士号を取得しました。古関裕而、林光、伊福部昭など、現代日本の作曲家の作品を中心に数多くのリサイタルを開催。現代曲の他に唱歌や童謡などのCDも多数。ニューヨークや北京など海外でも公演。1987年からは「童謡を歌う会」にて、足踏みオルガンを弾きながら唱歌や童謡を観客と一緒に歌い、2005年からは「うたの寺子屋」として開催。のちに和琴編も追加されました。著書に『これでいいのか、にっぽんのうた』(文藝春秋)、『日本語を歌おう!藍川メソッド』(カワイ出版) などがあります。
藍川由美の精力的な活動は、ここでは書ききれないほどに多彩で幅広いものですので、詳細は本人の公式サイトをご参照ください。
東京藝大大学院で日本歌曲を専攻していた藍川は、《アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌》(1956) のアイヌ語の発音指導を伊福部に師事しました。少年時代の伊福部は、音更の村長だった父親がアイヌと親しい関係であったので、アイヌ・コタンで自由にアイヌの人々と交流することが出来ました。その経験から生まれたこの歌曲の背景にあるアイヌの言語や文化などを藍川は伊福部から学びました。1985年には、ニューヨークのカーネギーホールにて《アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌》を歌い、同じく伊福部の《土俗的三連画》(1937) と共に好評を博しました。その後も、伊福部が藍川に献呈した《頌詩「オホーツクの海」》と《摩周湖》に加えて、《因幡万葉の歌五首》(1994) と、伊福部歌曲を立て続けに初演して、《蒼鷺》に至ります。
私的鑑賞記
私が《蒼鷺》を最初に聴いたのは、「伊福部昭 全歌曲」のCD (20CM-641-2) です。
実は、ギター作品と同様に、私が伊福部昭の歌曲に馴染むのには少々時間がかかりました。
私が初めて伊福部歌曲に接したのは、ラジオ番組の日本映画音楽特集で聴いた『コタンの口笛』(1959) のタイトル曲でした(映画は未見)。よく知られているように、この曲は、伊福部の《アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌》(1956) の第2曲「北の海に死ぬ鳥の歌」が原曲でした。「ヤイシャマネナ」の強烈な泣き節に衝撃を受けたのを今でも鮮明に覚えています。
その後、CD「日本の声楽・コンポーザーシリーズ3 芥川也寸志・伊福部昭」(VICC-60043) で、原曲の伊福部歌曲を聴くことになるのですが、先述の《アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌》や《ギリヤーク族の古き吟踊歌》(1946) は興味深く聴きましたが、《サハリン島先住民の三つの揺籃歌》は眠くなってしましました。(題名通り「子守歌」なので、眠くなるのは曲が良い証拠なのかもしれませんが)
CD「伊福部昭 室内楽作品集」(TYCY-5369-70) で、更科源蔵の詩による《頌詩「オホーツクの海」》と《摩周湖》を初めて聴きましたが、真摯な気持ちで向き合わなければならない厳しい曲だと思いました。格調高い作品だとは思いましたが、アイヌ民族の悲劇と怒りを込めた歌詞の具体的なメッセージ性と、簡素な楽器編成による張り詰めた雰囲気に、当初は気圧されました。
そんな私の伊福部歌曲に対する気持ちが変化したのは、CD「伊福部昭 全歌曲」に収録された《因幡万葉の歌五首》でした。宇倍神社の神主の系図上67代目にあたる伊福部昭が因幡万葉歴史館の開館記念として委嘱された歌曲で、雅な作風と藍川由美の大らかな歌は、比較的素直に聴くことが出来ました。
そのこともあり、文字通りこのCDに収録された全歌曲を通して聴くと、円熟味を増した藍川の歌唱も相俟って、漸く伊福部歌曲の奥深さに気付いてきました。
そして、《蒼鷺》は、初めて聴いた瞬間から素晴らしい作品だと感じました。極限まで無駄な音を削ぎ落した世界は、藍川が言うように「小細工が効かず、歌い手は裸で舞台に立つような怖さがある」曲だと思います。
《蒼鷺》の詩と曲については、齋藤俊夫による詳細な評論をご参照ください。
CDだけでなく、藍川由美のライブやワークショップには私も何度か足を運び、その力強い歌声を直に聴いたことがありますので、伊福部作品に相応しい歌い手だと思います。
伊福部に師事して、伊福部歌曲を長年歌ってきた藍川だからこそ最後の伊福部歌曲を見事に表現することができたと思います。
アオサギ
私事ですが、初めて《蒼鷺》を聴いたとき、更科の詩の内容や伊福部の言葉から、アオサギとは北海道でしか見られない孤高の鳥みたいなイメージを勝手に抱きそうになりました。ですが、四国ではアオサギは留鳥ですので、香川県でも割と普通に見ることが出来ます。田んぼや自然の多い場所は勿論、たまに高松市内でも見かけることがあります。
《聖なる泉》
聖なる泉
La Fontaine Sacrée
作詞・作曲:伊福部昭
作曲年:2000年
編成:ソプラノ、ヴィオラ、ファゴット、ハープ
2000年10月28日、東京文化会館小ホールにて、藍川由美 (Sp)、百武由紀 (Va)、吉田將 (Fg)、木村茉莉 (Hp) によって、アンコールで演奏されました。
映画『モスラ対ゴジラ』(1964) の同名挿入歌を編曲した歌曲です。原曲は女声二重唱でしたが、演奏会用にソプラノ独唱に改編されています。
映画挿入歌としての《聖なる泉》
『モスラ対ゴジラ』の劇中で、《聖なる泉》は、インファント島で最後に残された清浄な湖の前で、小美人(ザ・ピーナッツ)によって歌われます。南方の民族の歌ということで、メラネシアやポリネシアの言語による歌詞です。
因みに、その後のモスラが登場する映画でも《聖なる泉》が流れることがありました。
『モスラ対ゴジラ』の次作『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964) では、劇中のテレビ番組に出演した小美人が《幸せを呼ぼう》(作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰) を歌った後、前作の《聖なる泉》が聴こえてきました。
『ゴジラVSモスラ』(1992) では、『怪獣総進撃』(1968) 以来24年ぶりに復活したモスラに合わせて《聖なる泉》も28年ぶりに復活しました。新しい小美人コスモスに扮する今村恵子と大沢さやかの声に合わせて《聖なる泉》の音程も2度高く書き直されました。新しい演奏と録音は確かに鮮明になりましたが、伊福部も語っていたように、音が高くなることで、本来この歌が醸し出していた神秘性が薄れてしまった感じはあります。
この映画の《聖なる泉》は、『ゴジラVSスペースゴジラ』(1994) や、3D映画『怪獣プラネットゴジラ』(1994) にも流用されました。
意外な所では、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』(2001) で、『モスラ対ゴジラ』の《聖なる泉》が使用されました。
様々な《聖なる泉》
歌曲の他にも《聖なる泉》は、作曲者によって編曲されるなど幾度か装いを変えて演奏されました。
《SF交響ファンタジー第2番》(1983)
《SF交響ファンタジー第1番~第3番》は、伊福部昭が作曲した『ゴジラ』(1954) 等の東宝特撮映画音楽を作曲者自ら編曲した3つのオーケストラ作品です。《聖なる泉》は、第2番で、キングギドラのテーマや、キングコングとゴジラの対決の曲が続いた後に奏でられます。歌が無くても、その美しい調べに魅せられます。
《二十五絃箏曲「胡哦」》(1997)
題名は「胡人のうた」という意味で、伊福部昭は、シルクロード全盛期に敦煌からカシュガルの辺りに住んでいた西アジア系の民族をイメージして作曲したそうです。箏曲ということもあるでしょうが、南洋諸島の架空の島ではなく太古の西アジアをイメージした作品に仕上げるところがアジア的美意識を追求した伊福部らしいと思います。
この曲の生演奏は、2004年2月29日に北島町立図書館・創世ホールにて開催された「伊福部昭の箏曲宇宙 野坂惠子演奏会」で聴いたことがあります。野坂惠子(野坂操壽)の演奏は実に見事で、初めて聴く二十五絃箏の格調高い響きに魅了されました。
《聖爲泉》(2001) 不気味社による男声合唱版
異色なのは、秘密結社 不気味社による男声合唱版です。CD「豪快な呉爾羅」(2001) を初めて聴いたときの衝撃は今も覚えています。伊福部音楽への熱い思いに満ちた男声合唱の迫力に圧倒され、東宝特撮映画の濃厚なパロディ精神には腹筋が鍛えられそうなほど抱腹絶倒でした。
《聖なる泉》(2014) 和琴による弾き歌い
伊福部昭の生誕100年となる2014年に発売されたCD「神楽歌と伊福部 昭〜いまヴェールをぬぐ伊福部昭の音楽」(CMBK-30003) に収録された独唱版です。藍川由美が自ら和琴を弾いています。藍川の解説によると、この歌の旋律は日本古来の陰旋で、6絃の「清掻」と一致したそうです。《胡哦》と同様に、《聖なる泉》は琴の音色と相性が良いのかもしれません。
私見
数多い伊福部映画音楽の挿入歌の中でも《聖なる泉》は、『ゴジラ』の《平和への祈り》と並び、私が最も好きな歌の一つです。その旋律の美しさは比類なく、何度聴いても心が洗われるような神聖さがあります。
優れた音楽は分かり易く、民族の特殊性と通過して普遍的な作品に到達するという信念を持ち続けてきた伊福部昭だからこそ、その音楽は時代や国境を越えて人々を魅了しているのだと思います。
(敬称略)
参考資料(随時更新)
書籍・記事
『日本現代詩文庫/25/更科源蔵詩集』 更科源蔵、土曜美術社、1985年
Rockwell, John. “Music: Tokyo Youth Orchestra at Carnegie Hall.” The New York Times, May 26, 1985.
『伊福部昭の宇宙』 相良侑亮 編、音楽之友社、1992年
『伊福部昭 音楽家の誕生』 木部与巴仁、新潮社、1997年
「ソプラノの藍川由美 伊福部作品で演奏会」 朝日新聞 夕刊、2000年10月26日
「伊福部昭作品による藍川由美リサイタル 音楽家魂の自然な交感」 樋口隆一、日本経済新聞 夕刊、2000年11月2日
『伊福部昭 時代を超えた音楽』 木部与巴仁、本の風景社、2004年
『更科源蔵生誕100年 北の原野の物語』 財団法人北海道文学館 編、北海道立文学館、2004年
『伊福部昭綴る 伊福部昭 論文・随筆集』 伊福部昭、ワイズ出版、2013年
『伊福部昭 ゴジラの守護神・日本作曲界の巨匠』 片山杜秀 編、河出書房新社 2014年
CD
CD「AKIRA IFUKUBE 完全収録 伊福部昭 特撮映画音楽 東宝篇9」 伊福部昭、東芝EMI、TYCY-5267/5268、1992年
CD「琵琶行~伊福部昭作品集/野坂惠子」 伊福部昭、カメラータ、28CM-558、1999年
CD「伊福部昭:全歌曲/藍川由美」 カメラータ、20CM-641~2、2001年
CD「豪快な呉爾羅」 秘密結社不気味社、G.R.F.008、2001年
CD「モスラ対ゴジラ」 伊福部昭、東宝ミュージック、G-004、2004年
CD「ゴジラVSモスラ」 伊福部昭、東宝ミュージック、G-019-1/G-019-2、2006年
CD「ゴジラ外伝-流星人間ゾーン-+α」 東宝ミュージック、GX-5、2006年
CD「神楽歌と伊福部 昭〜いまヴェールをぬぐ伊福部昭の音楽/藍川由美」 カメラータ、CMBK-30003、2014年
ウェブサイト・ブログ
「「伊福部 昭作品による」藍川 由美リサイタル」 – 藍川由美 公式サイト
「《蒼鷺》」 – 伊福部昭データベース
「《聖なる泉》」 – 伊福部昭データベース
「古関裕而と伊福部昭 (モスラ vs ゴジラ?)」 – 藍川由美「倭琴の旅」 (2020年8月15日)
「評論|伊福部昭―独り立てる蒼鷺|1.だが蒼鷺は動かぬ|齋藤俊夫」 – Mercure des Arts (2020年4月15日)
「第4回 「伊福部作品を語る」(歌曲集編)」 – 後の祭
「蒼鷺(2000)」 – 「インチキ教授のホームページ」
「伊福部昭コレクション」 – 東京音楽大学
「伊福部昭音楽資料室・伊福部昭を讃える音楽記念碑」 – 北海道十勝 音更町
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