こんにちは。タムラゲン (@GenSan_Art) です。
3月31日、イオンシネマ高松東で『生きる LIVING』を妻と一緒に鑑賞しました。黒澤明の名作『生きる』(1952) を、カズオ・イシグロの脚本とビル・ナイの主演でリメイクしたイギリス映画です。
『生きる LIVING』について
生きる LIVING
Living
2022年11月4日 イギリス公開
2023年3月31日 日本公開
イギリス映画、カラー、103分
スタッフ
監督:オリバー・ハーマナス
製作:スティーブン・ウーリー エリザベス・カールセン
製作総指揮:ノーマン・メリー、ピーター・ハンプデン、ショーン・ウィーラン、トーステン・シューマッハー、エマ・バーコフスキー、オリー・マッデン、ダニエル・バトセック、カズオ・イシグロ、ニック・パウエル
原作:黒澤明、橋本忍、小国英雄
脚本:カズオ・イシグロ
撮影:ジェイミー・D・ラムジー
美術:ヘレン・スコット
衣装:サンディ・パウエル
編集:クリス・ワイアット
音楽:エミリー・レビネイズ=ファルーシュ
キャスト
ロドニー・ウィリアムズ:ビル・ナイ
マーガレット・ハリス:エイミー・ルー・ウッド
ピーター・ウェイクリング:アレックス・シャープ
サザーランド:トム・バーク
ミドルトン:エイドリアン・ローリンズ
ラスブリッジャー:ヒューバート・バートン
ハート:オリヴァー・クリス
ジェームズ卿:マイケル・コクラン
シン:アーナント・ヴァルマン
マクマスターズ夫人:ゾーイ・ボイル
スミス夫人:リア・ウィリアムズ
ポーター夫人:ジェシカ・フラッド
フィオナ・ウィリアムズ:パッツィ・フェラン
マイケル・ウィリアムズ:バーニー・フィッシュウィック
ブレイク夫人:ニコラ・マコーリフ
予告編
公式サイト
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『生きる LIVING』雑感
基本的に黒澤映画のリメイクには否定的な私ですが、今回のリメイク版に期待していたのには主に二つの理由があります。
一つは、舞台がイギリスであり、しかも時代設定も『生きる』とほぼ同時期の1953年ということです。『生きる』の海外でのリメイクに関して、当初はドリームワークスがトム・ハンクス主演で制作するという話がありましたが、機械的な官僚主義を描くのならアメリカよりイギリスの方が似合っていると思いました。
もう一つは、カズオ・イシグロが脚本を担当したことです。イシグロは、ノーベル文学賞を受賞したときに「作家としては、日本文学より、50年代の日本映画に大きな影響をうけた」と語っていて、『生きる』も子供の頃にテレビで見て強い感銘を受けたそうです。私も映画『日の名残り』を見たことがあるので、彼の手腕なら過去の黒澤映画のリメイクを超える脚色が出来るかもと思っていました。
そんな期待を抱いて『生きる LIVING』を実際に見てみましたが…
うーん、結論から言いますと、違和感が拭えなかったというのが正直な感想です。
イシグロや監督のオリバー・ハーマナスが現代の英米の観客にも受け入れやすくしたであろう改変個所が、悉くオリジナルの『生きる』の方が正しかったと実証する結果になっていました。
勿論、悪いところばかりではありません。美術や撮影は丁寧な仕事をしていますので、1950年代前半のイギリスの雰囲気を巧みに再現していました。白黒映画とカラー映画の違いがあるとは言え、同時代を舞台にした『生きる』と比べると、人々の服装や建物の威容や食事の豪華さの数々に、戦勝国と敗戦国の違いをまざまざと見せつけられる感じでした。
俳優も皆好演していましたし、主演のビル・ナイも如何にも英国紳士という感じでした。
ただ、ビル・ナイが立派に見えすぎることによって逆説的に『生きる』の世界との齟齬が生じていたと思います。
『生きる』の渡辺勘治は、どこにでもいそうな初老の男性で、自分の死期を知って哀れなほど狼狽してしまいます。ですが、そんな小心な男が無様な姿を晒しながら七転八倒した末に、漸く自分の生きる道を見出すからこそ物語に説得力がありました。
ですが、ビル・ナイが演じたウィリアムズは、癌を告知された後は過去を振り返りながら多少は動揺しますが、殆ど狼狽える様子がありません。威厳に満ちた英国紳士らしいと言えばそうかもしれませんが、渡辺のような死に対する恐怖や生きる意味を見出そうとする必死さが感じられませんでした。
『生きる』では重要なテーマ曲だった《ゴンドラの唄》に相当する歌として『生きる LIVING』のウィリアムズが歌うのは《ナナカマドの木》です。イシグロがこの歌を選んだのは、彼の妻がスコットランド出身で好きな歌だったからです。
《ナナカマドの木》は郷愁を感じさせる歌ですが、それ以上の意味がありませんし、ウィリアムズが上手く歌うものですから、『生きる』でピアノの伴奏とずれながら涙声で《ゴンドラの唄》を歌う渡辺の凄味には遠く及びませんでした。
『生きる LIVING』で、ウィリアムズが息子に自分の余命を伝えられないのは『生きる』と同じですが、息子夫婦とのやり取りも大きく変えられています。
役所を止めた小田切とよと逢瀬を繰り返していた渡辺は、思い切って自分の癌を息子の光男に伝えようとしますが、とよとの仲を誤解した光男に叱責されてしまい何も言えなくなっていました。
これに対して、ウィリアムズの息子マイケルは、妻のフィオナから、役所を止めた若い女性との仲が悪い噂になっていることを義父に注意するように炊き付けられます。ですが、ウィリアムズとマイケルのどちらも言い出せないまま夕食の場面は終わってしまいます。
渡辺が自分の余命を打ち明けようとしたのを光男が冷たく拒絶したからこそ、お通夜で父のことを何も分かっていなかった息子の軽薄さと悔恨が残酷なほどに際立つのに、この改変は拍子抜けです。
役所が性に合わないので転職するマーガレット・ハリスのキャラは悪くはないのですが、光男のことを愚痴る渡辺にサバサバと答える小田切とよのような天真爛漫さとは若干異なるような気がします。
それよりも落胆したのはウサギの玩具の扱いです。
『生きる』では、玩具工場に転職したとよが出来高制の仕事で苦労しながらも、日本中の子供のために作ることにやりがいを感じていました。それが結果的に役所でも人のために何かが出来ると渡辺が気付くキッカケとなる重要な意味を持っていました。
それに対して、マーガレットはカフェに転職したので、リメイク版でのウサギの玩具はウィリアムズに促された彼女がクレーンゲームで吊り上げただけの小道具でしかありません。重要な意味を持っていたウサギの玩具を何故そのような扱したのか理解に苦しみます。
個人的に私が非常に気になったのは音楽の入れ方です。
冒頭の役所への出勤場面で流れるピアノの曲が主張しすぎると感じた他は、概ね抑制した音楽演出でした。
問題なのは、主人公の死後、部下たちが回想する場面の全体に音楽が流れ続けていたことです。
『生きる』も、当初はお通夜での回想場面にも音楽を入れる予定でした。ですが、実際に音楽を入れた状態で初号試写をした後、黒澤明は回想場面の曲を全て外しました。
この判断にスタッフは困惑して、作曲者の早坂文雄もひどく落胆したそうですが、このときの黒澤の選択は英断だったと思います。
渡辺が自分の過去を振り返る悲哀に満ちた回想とは大きく異なり、お通夜での回想は、渡辺の死後、周囲の人間が的外れな憶測をしながらも徐々に真相に近付いていく過程です。
「生きる」ことを決意した渡辺が実地検証に出かけた直後に、お通夜の場面に飛ぶことによって、観客である私達もその過程をリアルタイムで体験することになるのです。
病魔に苦しめられ、官僚機構に阻まれて悪戦苦闘する渡辺の姿を辿る場面に、感傷的な音楽を付けてしまうと、作品のテーマが薄められて、ありふれたお涙頂戴モノに堕してしまうのは明白です。そして、回想場面の音楽を排したことによって、完成した公園のブランコに乗って渡辺が楽しそうに歌う《ゴンドラの唄》がより際立つのです。
ところが、先述の通り、リメイク版では汽車の中で会話するピーターや同僚たちと彼らの回想場面の全体に音楽が流れ続けています。
物語のクライマックスに音楽を入れるのは商業映画の定石かもしれませんが、大人向けのイギリス映画でも例外ではないということでしょうか。現代の観客にも受け入れやすくした演出でしょうが、黒澤が語っていたように、音楽を入れることによって甘く流れすぎることが実証された形となりました。
『生きる』と同様に、ウィリアムズの覚悟を悟った同僚たちは彼の生き方を受け継ぐと誓いを立てますますが、職場に戻ると以前と同じ機械的なお役所仕事に戻ってしまいます。ウィリアムズに同情的だったピーターのみ反感を抱きますが、周囲の圧力に屈してしまいます。
その後に、ピーターとマーガレットが再会して意気投合する下りが描かれます。
オリジナルの『生きる』公開時の日本は敗戦後から間がなかったので「黒澤は悲観的だったと思います」と語るイシグロは、「オリジナルより希望のある物語にしたかった」という理由でマーガレットとピーターの恋愛を加えたそうです。
率直に言って、これは蛇足でしかありませんでした。主人公の意志を彼等が受けつぐという風に脚色したとイシグロは語っていたので、映画を見る前は、てっきり二人が何か社会保障を充実させる活動でもするのかと思っていました。ですが、単に若いカップルがデートを繰り返しているだけで、ウィリアムズの意志云々とは全く無関係な展開です。
『生きる LIVING』は、ピーターが新人職員として、ウィリアムズが課長を勤める市民課に赴任する場面から始まります。陳情の婦人たちに連れられて役所の各課を巡るように、ピーターの視点で物語が語られるように見えます。ですが、ウィリアムズが癌の告知をされるあたりから『生きる』と同じように、殆ど全てウィリアムズ視点になります。
『生きる』のお通夜で、最初からただ一人渡辺に同情的だった木村(日守新一)のキャラを膨らませた独自の脚色かもしれません。ですが、ウィリアムズの遺志を受け継ぐことを表現するために追加されたのがマーガレットとの恋愛では、この改変が無駄に見えてしまいます。
黒澤は『生きる』の最初のカットを渡辺の胃のレントゲン写真から始めて、役所で機械的に仕事をする彼の姿を映し出します。脚本の一行目から物語の核心から踏み込んでいく黒澤映画を改変することが如何に困難かは明白です。
ここまで書いてきて思ったのですか、リメイク版が現代の観客に受け入れやすくために改変した部分の多くは、オリジナルの辛辣な部分を(良くも悪くも)オブラートに包んでいました。
ウィリアムズが息子に叱責されることはありませんし、マーガレットも余命を告白したウィリアムズに嫌悪感を見せないどころか同情の涙さえ流します。同僚たちの回想場面に音楽が流れるのも、その一環でしょう。
ウィリアムズがピーターに遺書を残していましたが、これも分かりやすさという名の蛇足だと思います。最初からウィリアムズに同情的であってピーターと同様に、観客もウィリアムズのことを見てきたのですから、今更そうしたメッセージを言葉にされる必要などない筈です。
カズオ・イシグロがビル・ナイに笠智衆のようなキャラを見出して小津映画のテイストを狙った『生きる LIVING』ですが、黒澤が丁寧に描いた人生に対する絶望と生きる意味への渇望が薄まってしまう結果となってしまいました。
これは私の妄想ですが、仮にケン・ローチが『生きる』をリメイクしたら、オリジナル以上に官僚機構に対する風刺の効いた作品になっていたかもしれません。
色々と酷評を連ねてしまいましたが、仮に『生きる LIVING』がリメイク作品でなければ、そこそこの佳作として、私もここまで悪印象は抱かなかったかもしれません。ですが、黒澤明の名作のリメイク作であることを名乗っている以上、比較は避けられません。
何はともあれ、私の不満を余所に『生きる LIVING』は各地で好評なようですので、これを機会に『生きる』を未見の人たちも黒澤明の名作を観てくれることを期待しています。(台詞が聴き取りにくいかもしれませんので、日本語字幕の表示をお勧めします)
(敬称略)
参考資料
『巨匠のメチエ 黒澤明とスタッフたち』 西村雄一郎、フィルムアート社、1987年
『黒澤明 音と映像』 西村雄一郎、立風書房、1998年
“Living – Q&A with Oliver Hermanus, Kazuo Ishiguro, and Bill Nighy.” National Board of Review, December 22, 2022.
Qureshi, Bilal. “How should we be ‘Living’? Kurosawa and Ishiguro tackle the question, 70 years apart.” NPR, March 7, 2023.
「名作映画「生きる」のリメーク脚本担当/作家 カズオ・イシグロさん/自分次第で人生は輝く」(しんぶん赤旗 日曜版、2023年3月19日号)
「カズオ・イシグロ「周りからの称賛を期待して行動してはいけない」 黒澤明の名作『生きる』から学んだこと」(クランクイン! 2023年3月26日)
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