こんにちは。タムラゲン (@GenSan_Art) です。
昨日 (10月1日) は、イオンシネマ宇多津にて、黒澤明の『赤ひげ』(1965) を、妻と一緒に鑑賞しました。今年から再開した「午前十時の映画祭11」の企画です。
『赤ひげ』について
赤ひげ
Red Beard
1965年4月3日 スカラ座先行公開
1965年4月24日 一般公開
東宝株式会社・黒澤プロダクション 製作
東宝株式会社 配給
白黒、シネマスコープ、185分
スタッフ
監督:黒澤明
製作:田中友幸、菊島隆三
原作:山本周五郎「赤ひげ診療譚」より
脚本:井出雅人、小國英雄、菊島隆三、黒澤明
撮影:中井朝一、斎藤隆夫
美術:村木与四郎
録音:渡会伸
照明:森弘充
音楽:佐藤勝
整音:下永尚
監督助手:森谷司郎
現像:キヌタラボラトリー
製作担当者:根津博
キャスト
新出去定:三船敏郎
保本登:加山雄三
佐八:山﨑努
お杉:団令子
おなか:桑野みゆき
狂女:香川京子
津川玄三:江原達怡
おとよ:二木てるみ
おくに:根岸明美
長次:頭師佳孝
森半太夫:土屋嘉男
五平次:東野英治郎
和泉屋徳兵衛:志村喬
登の父:笠智衆
娼家の女主人きん:杉村春子
登の母:田中絹代
利兵衛 (狂女の父):柳永二郎
平吉:三井弘次
家老:西村晃
松平壱岐:千葉信男
六助:藤原鎌足
天野源伯 (まさえの父):三津田健
ちぐさ (まさえの姉):藤山陽子
まさえ:内藤洋子
おとく (賄のおばさん):七尾伶子
おかつ (賄のおばさん):辻伊万里
おふく (賄のおばさん):野村昭子
おたけ (賄のおばさん):三戸部スエ
長次の母:菅井きん
娼家の女主人:荒木道子
入所患者A:左卜全
入所患者B:渡辺篤
地廻り:小川安三
長屋の住人:佐田豊
長屋の住人:沢村いき雄
長屋の住人:本間文子
大家の女房おこと:中村美代子
まさえの母:風見章子
娼婦:青木千里
娼婦:栗栖京子
娼婦:柳下悠紀子
娼婦:深井聰子
道で逢う女:富田恵子
地廻り:大木正司
地廻り:広瀬正一
地廻り:山口博義
長次の父:大久保正信
地廻り:常田富士男
地廻り:荒木保夫
地廻り:田中浩
地廻り:伊吹新
地廻り:宇仁貫
地廻り:木村博人
地廻り:古諸州
地廻り:久世竜
あらすじ
江戸時代。長崎への留学を終えて江戸に戻ってきた保本登は、小石川養生所を訪れます。オランダ医学を修めた登は、幕府の御番医になり、許嫁のちぐさと結婚する予定でした。ところが、ちぐさは登の遊学中に他の男と恋仲になっていた上に、小石川養生所の所長・新出去定(通称・赤ひげ)から養生所の見習い医師として勤めるよう命じられてしまいます。江戸で御目見医になれると思っていた登は、貧しい町民を治療する職場に突然押し込められたことを不服に思い、養生所の決まりに逆らい続けます。ある晩、狂女に襲われそうになった登を赤ひげが救ったことをキッカケに、登は次第に養生所で治療を受ける人々の苦境に目を向け始めるのでした。
個人的鑑賞記
これまでの鑑賞記
私が初めて『赤ひげ』を鑑賞したのは、1991年3月19日、日本でレンタルした東宝盤ビデオ (VHS) でした。後日、アメリカでも『赤ひげ』のビデオをレンタルしてみましたが、休憩がカットされていた上に、おなかが佐八の家で身の上話をしている最中に上巻が終わるという信じられない仕様でした。『用心棒』(1961) の初期米盤ビデオのようにトリミングされていなかっただけまだマシでしたが…)
時は移り、1997年12月24日には三船敏郎が、1998年9月6日には黒澤明が他界しました。
その2ヶ月後、追悼企画として黒澤の代表作が高松東宝会館で上映されました。
11月21日~11月27日『隠し砦の三悪人』『天国と地獄』
11月28日~12月4日『七人の侍』
私が映画館で『赤ひげ』を見たのは、このときが初めてでした。 (その高松東宝会館も、2004年に閉館しました。)
2002年からは大映、東宝、松竹、ワーナーブラザーズから黒澤映画のDVDが続々と発売されました。『赤ひげ』は、2002年に発売された東宝のDVD BOX第一弾に収録されていました。
午前十時の映画祭11
今回の「午前十時の映画祭11」同時上映の『隠し砦の三悪人』(1958) は4Kデジタルリマスター版ですが、何故か『赤ひげ』は4Kではなく2015年に上映したときと同じデータのようです。予算や時間の都合かもしれませんが、詳細は不明です。
もっとも、一昨年の『七人の侍』(1954) 4Kデジタルリマスターの上映までは、私も岡山県のTOHOシネマズ岡南まで見に行っていましたが、さすがにコロナ禍が収束していない現状では県外への移動は無理なので、香川県内の上映しか選択の余地はないのですが。
それに、4Kではないとは言え、6年前のデジタル修復版でも十分に鮮明な画質と音声でしたので、特に不満はありません。23年ぶりに『赤ひげ』を地元の映画館で鑑賞できて至福のひとときでした。
『赤ひげ』は、午前十時の映画祭のグループB劇場で、2021年10月14日(木) まで上映中です。
白黒時代の黒澤映画の集大成
制作の経緯
戦後十数年間、日本映画界は観客動員数も多く、数多くの巨匠が名作を連発して国際的な評価も得るなど、質量ともに黄金時代でした。ですが、1960年代あたりから、テレビの台頭など娯楽の多様化で観客数も激減してきて産業としての映画界に陰りが見えてきます。
そんな中、危機感を強めていた黒澤明は『赤ひげ』の撮影中に次のように語っていました。
黒澤明「近ごろ(1960年代前半)はただ刺激的なものを作ればいいという考え方が流行しているらしいが、繰り返していればすぐあきてしまう。人間の深い部分にもっとはいっていかないとね」「映画館から興奮して出てくるのでなければ、映画を見る意味がなくなるものね。人間が生き行くうえでのバイタリティーというか、そういうものをつかみとれる映画が少ないんだよ、きっと。お涙ちょうだい式のものではなく、感動から涙が出てきて仕方がないもの―つまり心に響いてくるもので映画も勝負すべきだ」 ― 東京新聞 夕刊 1964年4月11日
「完全主義者」と呼ばれることの多い黒澤が『赤ひげ』のパンフレットに寄稿した文章の中で「スタッフ全員の力をギリギリまで絞り出してもらう。そして映画の可能性を、ギリギリまで追って見る」と表明したように、この映画にかける彼の意気込みは、これまで以上のものでした。
黒澤は、山本周五郎の『赤ひげ診療譚』(1958) を、助監督だった堀川弘通に撮らせるつもりでしたが、原作に惚れ込んでいたこともあり、自ら映画化することに決めました。1963年5月末から脚本執筆に取り掛かり、いつものように苦労の末、7月の初旬に脱稿します。撮影は、同年12月21日に開始して、1964年12月19日に約1年かけて終了しました。
『赤ひげ』に対する黒澤の意気込みがいつも以上だったためか、俳優の演技に多少肩に力が入りすぎている気がしますが、その強靭かつ繊細な演出力は今見ても有無を言わさないほどに圧倒的です。特にスクリーンで見ることで、全編に渡って映像・演技・音響の全ての要素が非の打ち所がないほどの完成度であることが分かります。
最高の演技陣
いつも出演者が豪華な黒澤映画の中でも『赤ひげ』の出演者は特に豪華です。
この映画が最後の黒澤映画出演となった三船敏郎は、新出去定を重厚に演じて『用心棒』に続く二度目の男優賞をヴェネチア国際映画祭で受賞しました。保本登役の加山雄三と津川玄三役の江原達怡は『椿三十郎』(1962) の若侍のときより遥かに好演していましたし、黒澤映画常連の土屋嘉男も、同年公開の『怪獣大戦争』のX星統制官と同一人物とは思えないほど(笑)実直な森半太夫がよく似合っていました。『天国と地獄』(1963) の誘拐犯とは正反対の善良な佐八を演じた山﨑努は自分では「うまくいかなかった」と自虐的に語っていましたが、実際に見てみれば決して悪くはなかったと思います。
登場人物が多い『赤ひげ』は黒澤映画としては女性キャラも多く、団令子、桑野みゆき、香川京子、根岸明美がそれぞれ名演を披露しました。
中でも、二木てるみ は、ドストエフスキーの『虐げられた人々』のネルリをモデルにした おとよ という難役を、若干15歳 (撮影当時) で見事に演じ切りました。おとよ と長次が出会う映画後半の展開が『赤ひげ』の白眉です。長次役の頭師佳孝も大人顔負けの名演でした。
この他にも、志村喬、藤原鎌足、東野英治郎、三井弘次、西村晃など黒澤映画ではお馴染みの俳優に加えて、杉村春子、笠智衆、田中絹代という名優まで短い出番という贅沢な配役でした。
美術
『赤ひげ』の主な舞台となる小石川養生所のオープンセットは、東宝撮影所 (成城) 近くにある30,000平方メートルの敷地に建てられました。表門、役人詰所、病棟、賄所など30棟で、3,000平方メートル以上の広さという当時としては異例の広大なセットでした。
広さに加えて、そのリアルなディテールも撮影中から大きな話題になりました。映画の時代設定は、養生所が創立された1722年 (享保7年) から100年以上が経った文政の頃にあたる1820年から1840年頃です。1世紀もの間、風雪に耐えてきた感じを出すために黒澤自身が率先してスタッフ総出で磨き上げたそうです。
このセットを建てるにあたり、助監督や美術スタッフは各方面の専門家に協力を仰いだそうです。
東京大学・史料編纂所の小野信一が見つけた『東京市史稿・救済篇』には、養生所の設計図の他に、お仕着せのあったことなど数々の事実が記されていました。『享保集成』や『柳営日次記』などを出典とするこの史料が、映画の主な舞台となる小石川養生の裏付けとなりました。
この他にも、助監督は、慶応大学付属病院の大島蘭三郎教授 (日本医史学専攻) から『皇国医事年表』『医家先哲肖像集』『華岡青州先生乃其外科』など数冊の書籍を借りました。又、順天堂大学の小川鼎三博士 (歴史学) からは、シーン18の女人足の外科手術の場面について意見を伺いました。
養生所でつくる麦飯も、麦と米の割合を文献に忠実に炊いたもので、スタッフにも好評な味だったそうです。
このように、養生所のセットは勿論、医療の考証から衣類・食事などに至るまで、映画全体が非常に緻密な時代考証に裏付けられていました。勿論、映画として視覚的な効果を優先して、養生所の患者の部屋数や薬箪笥の引き出しを増やしたり、手術台を創作するなどしています。そうした部分も全体の考証が行き届いているからこそ、あらゆる被写体が重厚なリアリティを持って映っています。
音楽
『赤ひげ』の厳かなテーマ曲のモデルがベートーヴェンの交響曲第9番であることは有名です。しかも、第九は第九でも、1951年にバイロイト音楽祭でフルトヴェングラーが指揮した演奏でなければならないと拘るあたりクラシック音楽に対して揺るぎない好みがある黒澤明らしいです。
黒澤が指定した第九というモデルを佐藤勝がどのように消化して作曲したかについては、長年に渡り黒澤映画とその映画音楽を研究してきた西村雄一郎が名著『黒澤明・音と映像』(立風書房) に詳述していますので、そちらを御参照ください。
黒澤明が自分の時代劇にベートーヴェンなど西洋のクラシック音楽をモデルにした音楽を付けることに対して、ドナルド・リチーは繰り返し揶揄を交えながら批判していました。ですが、早坂文雄や佐藤勝は決して自分の作曲家としてのオリジナリティを失うことなく作曲していましたので、こうした批判は表層的で的外れだと思います。
それに、黒澤が拘ったのは第九だけではないことは、冒頭のタイトルを見ても明らかです。『赤ひげ』のタイトルが映るカットではテーマ曲が高らかに奏でられますが、すぐに曲は静かになり何度か中断されます。養生所の屋根瓦をあらゆる角度から映す映像の遠くから、物売りの音や下駄の歯入れなど江戸の町の日常音が聞こえてきます。自伝『蝦蟇の油』の中で、黒澤は少年時代に聞いていた風鈴売りの風鈴や竹竿売り等々、電気製品や自動車が溢れる以前の日常で聞こえていた音を非常に多く克明に記していました。黒澤の記憶力もさることながら、音に対する感受性も人一倍鋭かったことの証でもあります。
『赤ひげ』の音で特に印象的なのが、佐八と おなか の挿話で繰り返し出てくる風鈴です。美術の村木与四郎によると、時代的にほうずきに風鈴は吊られていなかったそうですが、黒澤は視覚的な効果を優先したそうです。
佐藤勝が効果部にある風鈴を聞いて、一つ一つ全てのピッチをピアノで取って選別しました。作曲家が自ら手間をかけて風鈴の音と音楽のキーを合わせたからこそ、耳に心地よく響く音色になったのです。
こうした繊細な音の演出を見ても (聴いても) 黒澤が西洋文化を巧みに取り入れつつ、自らが育った日本の文化も同時に大切に表現していることが分かります。
『赤ひげ』の映画音楽 (モノラル版) は、2002年に東宝ミュージックから発売された「黒澤明 映画音楽全集」に全曲収録されています。ところが、『赤ひげ』のステレオ音源テープが著しく劣化していたので、1993年の「佐藤勝 映画音楽選集13」(SLC) からステレオ版を再収録していたことに愕然としました。SLCのCD発売から僅か10年足らずでここまで劣化するとは、東宝はテープを適切に保管していたのでしょうか?
原作との比較
エピソードの選択
黒澤明の『赤ひげ』は、山本周五郎の『赤ひげ診療譚』をかなり忠実に映画化しています。
映画後半の主軸である おとよ と長次の話は映画のオリジナルですが、保本登が小石川養生所を訪れてから養生所に残ることを新出去定に告げるまでの大筋はそのままに、次の表に記した原作の各エピソードも殆ど網羅しています。
原作 | 映画 |
狂女の話 | ○ |
駆込み訴え | ○ |
むじな長屋 | ○ |
三度目の正直 | × |
徒労に賭ける | ○ |
鶯ばか | △ |
おくめ殺し | × |
氷の下の芽 | △ |
保本と狂女
とは言え、実際に原作を読んでみますと、映画後半以外にも原作と若干異なる箇所が幾つかあります。
物語の序盤で保本登が養生所に押し込められたことを不服に思いやさぐれていたのは原作通りです。ただ、映画は加山雄三が演じていたこともあり少し拗ねているだけに見えましたが、原作の保本は お杉と隠れて逢うことを繰り返していて、お杉のことを「おまえ」呼ばわりまでするなど映画以上に口調に棘を感じます。挙げ句には、或る夜、酔った勢いでお杉の唇まで奪ってしまいます。流石にこんな行為を映像化したら、保本に対する好感度は暴落したに違いありません。
因みに、映画の終盤で保本と祝言を上げる天野家の娘の名は「まさえ」でしたが、原作では「まさを」でした。まさを よりは まさえ の方が女性らしい名前という判断なのでしょうか。
原作では、津川は、養生所に来たばかりの保本に賄所の娘「お雪」が森半太夫の恋人だと言っていましたが、彼女の片思いで半太夫は「お雪」を避けていました。
映画では名前が無かった狂女は、原作では「ゆみ」という名前でした。正気に戻る時間が長くなったために自死を図ろうとする点は映画と同じですが、原作では病にかかり余命が長くないことまで描かれます。
映画では保本が自室で飲酒しているところへ牢造りの家から抜け出た狂女が訪れます。彼女が自分の不幸な身の上話をして保本を籠絡するのは原作と同じですが、その状況がかなり異なります。
先述のように、原作では、保本とお杉は おゆみ の住居から離れた亭づくりの腰掛で、夜に何度も逢っていました。月もない暗い夜に、酔った保本はそこを通った際にお杉に呼び止められます。彼女にすすめられた酒を飲みながら、保本は おゆみ の辛い過去を聞かされます。次第に意識が遠のいていきた保本は、暗闇にいたのがお杉ではなく おゆみ であることに気付きますが、薬酒で身体の自由を奪われて動けなくなっていました。そして、彼女の簪で絶体絶命という保本を、新出が間一髪で救います。
余談ですが、映画で新出が狂女を取り押さえる場面もスチル写真が数枚あることから撮影されたようですが、本編ではカットされています。
他の黒澤映画でも、わざと見せ場を隠す間接描写が見事な効果を上げていました。『七人の侍』で勘兵衛が盗人を斬る場面や、『蜘蛛巣城』(1957) の城主暗殺、『悪い奴ほどよく眠る』(1960) のラスト、そして『影武者』(1980) の長篠の戦い等々。凄惨な現場を直接見せるのではなく想像力を喚起する描写だからこそ戦慄的な効果がありました。
狂女を取り押さえる場面も映画の流れを考えると確かに無い方が自然です。
せっかく撮った映像をカットするのは勇気がいりますが、映画全体の構成を考慮して不必要な映像を省略できる判断力こそ黒澤明を世界トップレベルの編集者たらしめていたのです。
話を「狂女の話」に戻しますと、意外だったのが おゆみ の父親像です。
映画の父親は、自死を図った娘を放置して、付き添いの お杉 を非難する薄情な人物でした。これに対して、原作の父親は、娘を狂わせる原因となった手代を激しく憎み、娘の不幸に落涙する温厚な人物という映画とは正反対なキャラでした。
保本と六助
もう一つ個人的に驚いたのは、次の「駆込み訴え」です。
膵臓癌で苦しみながらも何も言わずに他界する蒔絵師の六助と、その娘おくに の話は基本的に映画でも同じです。映画では養生所を訪れた おくに の身の上話を新出と保本が聞き、父は苦しみながら死んだのかと聞く彼女に新出は「安楽な死にかただった」と答えて保本は驚きます。ですが、原作では、既に入牢していた おくに に新出と保本が面会します。新出が町奉行に話をつけに行っている間に、保本が おくに から身の上話を聞きます。そして、父が死んだことを聞かされた彼女が「苦しんだでしょうか」という問いに「安楽な死にかただった」と答えたのが保本でした。
私の想像ですが、苦しむ六助を正視できなかった保本は、新出の言うように人間の死を荘厳を受け取ることが出来ずにいた点では映画も原作通りでしたが、おくに の身の上話を聞いた後で「父の安楽な死」という小さな嘘で彼女の心にせめてもの救いを与えることが、保本が六助の死を醜悪なものではなく「凄まじいが、胸をうたれる顔」だと思い直すという感じに脚色したのでしょうか。佐藤勝の渾身の曲と相俟ってかなりストレートな表現なので面喰いますが、保本が貧しき人達の人生に目を向けていくきっかけでもある重要な場面なので、これほど力の入った描写になったのかもしれません。
おとよ と長次
映画の『赤ひげ』は結末で全てが丸く収まりますが、原作では若干後味が異なる箇所が幾つかあります。
それが最も顕著なのが映画後半の主軸である おとよ と長次の話です。
原作では両者が登場する話は別々で、どちらも映画とは異なる苦い結末を迎えます。「徒労に賭ける」の おとよ は、娼家で酷使されていたにも関わらず養生所に引き取られることを頑なに拒みます。数日後、新出たちがその娼家を訪れたときに彼女の姿はありませんでした。「鶯ばか」の長次も、親兄弟と共に服毒した後、保本の懸命な治療も空しく絶命してしまいます。
人生必ずしも全てがうまくいく訳ではない感じの原作の方が確かにリアルかもしれませんが、子供達を不幸な境遇から救った映画の展開も捨てがたいです。
社会の不条理はいつも解決できるとは限らないことを描いた山本周五郎の『赤ひげ診療譚』と、苦境の中でも希望を見出そうとした黒澤明の『赤ひげ』。どちらが良いかは評価の分かれるところですが、私は両方にそれぞれの良さがあると思います。原作と映画が共に名作という稀有な例です。
新出去定と三船敏郎
原作と映画のもう一つ大きな違いは、タイトルロールでもある「赤ひげ」かもしれません。
原作の新出去定は「無力な人間に絶望や苦痛を押しつけるやつには、絶望や苦痛がどんなものか味わわせてやらなければならない」と権力者に対する怒りを露わにしながら、舌の根も乾かぬ内に「かれらも人間だということを信じよう、かれらの罪は能力がないのに権力の座についたこと (略) かれらこそ憐れむべき人間どもなのだ」などと言うように、常に相矛盾する感情がせめぎ合っています。
彼は自分自身が過去に盗みや裏切りなどの悪行をしてきた「傷だらけの人間」だから悪に走る人間の気持ちが分かるとも吐露していました。
確かに、原作に比べると、映画の新出去定からはそうした「傷だらけ」の過去は全く感じられず、殆ど非の打ち所のない人格者として描かれています。
学生時代から長年に渡って黒澤映画を研究してきた西村雄一郎でさえ、三船が演じた新出が人間味の薄いロボットのように見えてしまい、善悪の描写が一面的という理由から『赤ひげ』が唯一苦手な黒澤映画だと言っています。(『赤ひげ』が技術的に完璧であることは西村も認めていますが)
脚本を共同執筆した小國英雄も、黒澤に三船の演技が「間違っている」と伝えたほどです。この小國の言葉が黒澤・三船コンビに終止符を打つきっかけになったという見方をする人がいるようですが、全員が故人となった今は真相は藪の中です。
『トラ・トラ・トラ!』(1970) の素人俳優を巡る三船の発言などもあり、二人の不仲説は根強くありました。ですが、『デルス・ウザーラ』(1975) 撮影中の黒澤を陣中見舞いするため三船は遙々旧ソ連にまで足を運びましたし、黒澤も自伝や晩年のインタビューで三船の一挙手一投足を絶賛していました。
現実的に考えれば、三船プロの社長として社員を養わなければならない立場にあった三船敏郎が、撮影に約1年もかかる黒澤映画に出演することは不可能だった筈です。又、黒澤も、自ら『赤ひげ』を「集大成」と呼んだように、三船の役が完全無欠に等しい聖人に到達したことで彼とのコンビはやり切ったと感じていたのかもしれません。
話を再び『赤ひげ』に戻せば、黒澤が悪人の中でも娼家の女主人きんを特に極悪人に描いたのは、映画界に入る前に兄・丙午の住む長屋で過ごしていた頃の体験が影響しているのでしょうか。継母に縛られて虐待される娘がいたので、継母が留守中に黒澤は紐を解いて助けようとしましたが、逃げると余計に虐められると言って娘は助けられることを拒絶したそうです。
こうした人間の暗部をリアルに見聞きした経験があることを考えれば、幼い少女を虐待する娼家の女主人を、黒澤が激しく憎み映画の中で懲らしめたことは当然な気もします。
それに、厳めしい面ばかりが強調されたと思われがちな映画の新出ですが、他人を拒絶する おとよ に対して辛抱強く接したり、彼女が心を開く過程を見守る様は、弱者に対する無償の優しさを見事に表現していて、三船敏郎の演技力が世評より遥かに高いことを証明しています。結果的に最後の黒澤映画出演となりましたが、三船は有終の美を飾ったと思います。
『赤ひげ』の理想と現実
黒澤明は、時代劇を撮るときも現代の問題を扱っていると語っていました。
『用心棒』が資本主義への風刺であり、『乱』(1985) が戦争批判であったように、『赤ひげ』で描かれた小石川養生所の病人の苦境は、経済格差やコロナ禍などで困窮する現代の人々にも重なります。
2020年11月には渋谷のバス停でホームレスの女性が殺害されるという痛ましい事件がありました。同様の事件は他にも数多く起きています。それにも関わらず、ネット上には「自己責任」という言葉を被害者に押し付けて非難する声が溢れていました。
コロナ禍で生活が立ちゆかなくなった国民が増えているというのに、現在の自公政権はロクな補償もせず、感染者には「自宅療養」という名の自宅放置で見殺しにするなど、公助を放棄して自助ばかり押し付けています。
江戸時代ではなく、21世紀にもなって、消費税を増税したり雇用の安定を破壊して、貧困層を減らすどころか貧困層を増やして虐げるような政府が「美しい国」を標榜するなんて欺瞞にも程があります。
赤髭「これまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか、人間を貧困と無知のままにして置いてはならぬ、という法令が一度でも出たことがあるか」「貧困と無知さえなんとかできれば、病気の大半は起らずにすむんだ」
『赤ひげ』の中で憤る新出去定の言葉は、今こそ重く響きます。
まだ筑紫哲也が現役だった頃の「ニュース23」に出演したアメリカ人医師のパッチ・アダムスは、自分を題材にしたハリウッド映画よりも黒澤の『赤ひげ』の方が好きだ、と語っていたことを覚えています。
原作と映画では、保本が新出の後継者となって養生所に残るところで幕を下ろします。
保本の成長と決心に偽りはないでしょう。ですが、森半太夫のように理解ある同僚がいたとしても、果たして彼一人の努力でどうにかなるものか、養生所の歴史を紐解くと一抹の不安を覚えます。
小石川養生は、1772年 (享保7年) に小石川薬園 (現在の小石川植物園) 内に開設されました。当初は、人体実験や薬の質など根拠の無い噂が流れたため入所希望者が少なかったです。そのため、町奉行が現地見学会を行ったり、入所手続きを簡略化するなどすることによって、養生所に審査や入所の希望者が急増しました。
歴史家・安藤優一郎は、著書『江戸の養生所』(PHP文庫) で、江戸時代の医療事情から養生所の成り立ちと事業内容、そして時代が下るにつれて劣悪な環境になってしまった様子も、豊富な史料を基に解き明かしています。
保本登が養生所を初めて訪れた際に、前任者の津川が不熱心な人物であることが描かれていましたが、現実はもっと酷いものでした。言うまでもなく、新出去定は架空の人物で、彼が就いていた養生所の所長という役職も物語の創作です。
『赤ひげ』の時代設定である文政年間には、開設から約1世紀経った養生所の環境が悪化していました。医師が治療に不熱心な上に、入所者の世話をする看護中間の不正行為や入所者への虐待まで横行していたそうです。そして、こうした問題は大して改善されることなく幕末を迎えたのです。
勿論、映画の『赤ひげ』は山本周五郎の原作を基にしたフィクションですので、後年の『デルス・ウザーラ』や『影武者』と同様に、黒澤の理想を描いた物語です。ですから、過度に史実と比較するのが野暮であるのは言うまでもありません。
『赤ひげ』を豪放磊落な医師に心酔する青年医師の成長譚として見るか、医療と福祉の問題提起をする社会派映画として見るかで評価は大きく分かれると思います。黒澤明は「未完成なものが完成していく道程に、私は限りない興味を感じる」という理由で「青二才が好きだ」と自伝にも書いています。映画が保本の成長を中心に展開しているいるため、彼の視点を通して描かれる数多くの貧しい人々はその成長を促すための点景に感じられるかもしれません。ですが、逆に見れば、そうした人々こそ社会の矛盾を訴えるための重要な要素で、保本は狂言回しとも言えます。
私自身、初見のとき以来、再見する度に『赤ひげ』に対する評価が揺れています。映画を形作る撮影、美術、編集、音楽、演技など全ての要素を完璧に仕上げた黒澤明の手腕は神業だと思います。同時に、狂女の狂的体質が先天性のものであったとしても「子供の時、あの娘のような目にあった女なら沢山いる」という理由で現実に性被害にあった彼女の心的外傷は放置したままでいいのか疑問です。(今回の鑑賞で、妻もこの点が特に納得できなかったようです) 天野ちぐさ の「不義」を償うために、妹の まさえ が保本に嫁ぐことで保本天野両家の蟠りが円満に解決するという結末も、いくら江戸時代の物語とは言え今も釈然としません。
ですが、そうした疑問を覚えながらも、やはり『赤ひげ』は圧倒的な名作だと思います。原作に忠実な前半から一転して後半のオリジナルの展開は何度見ても胸が熱くなります。個人の力には限界があっても、一人の善行が次の善行を育んでいく黒澤ヒューマニズムは、たとえ綺麗ごとと言われようとも、時代を超えて人類に最も必要なものではないでしょうか。
この人類愛を比類なき映画技術で具現化した作品だからこそ、黒澤明の『赤ひげ』は世界中の人々に見られるべき名作だと思います。
(敬称略)
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参考資料(随時更新)
『赤ひげ』関連
『赤ひげ診療譚』 山本周五郎、新潮社、1959年
『世界の映画作家3 黒沢明』 キネマ旬報社、1970年
『赤ひげ』(パンフレット改訂版) 東宝株式会社、1984年
『巨匠のメチエ 黒澤明とスタッフたち』 西村雄一郎、フィルムアート社、1987年
『全集 黒澤明 第五巻』 岩波書店、1988年
『黒澤明 集成』 キネマ旬報社、1989年
『黒澤明の映画』 ドナルド・リチー、三木宮彦 訳、社会思想社、1993年
『300/40 その画・音・人』 佐藤勝、キネマ旬報社、1994年
「映画より面白い 99」 西脇英夫 『キネマ旬報』1995年4月上旬号
『キネマ旬報復刻シリーズ 黒澤明コレクション』 キネマ旬報社、1997年
『三船敏郎 さいごのサムライ』 毎日新聞社、1998年
『黒澤明 音と映像』 西村雄一郎、立風書房、1998年
『村木与四郎の映画美術 [聞き書き]黒澤映画のデザイン』 丹野達弥 編、フィルムアート社、1998年
『クロサワさーん! ―黒澤明との素晴らしき日々―』 土屋嘉男、新潮社、1999年
『黒澤明 夢のあしあと』 黒澤明研究会 編、共同通信社、1999年
『評伝 黒澤明』 堀川弘通、毎日新聞社、2000年
『黒澤明を語る人々』 黒澤明研究会 編、朝日ソノラマ、2004年
『大系 黒澤明 第2巻』 黒澤明 著、浜野保樹 編、講談社、2009年
『もう一度 天気待ち 監督・黒澤明とともに』 野上照代、草思社、2014年
『黒澤明と三船敏郎』 ステュアート・ガルブレイス4世、櫻井英里子 訳、亜紀書房、2015年
『サムライ 評伝 三船敏郎』 松田美智子、文藝春秋、2015年
『三船敏郎の映画史』 小林淳、アルファベータブックス、2019年
『旅する黒澤明 槙田寿文ポスター・コレクションより』 国立映画アーカイブ 監修、国書刊行会、2020年
小石川養生所関連
『江戸の養生所』 安藤優一郎、PHP研究所、2005年
『日本医療史』 新村拓 編、吉川弘文館、2006年
『日本病院史』 福永肇、PILAR PRESS、2014年
CD、DVD
CD「赤ひげ」 佐藤勝、東宝ミュージック、AK-0009、2002年
DVD『赤ひげ』 東宝株式会社、2002年
その他
しんぶん赤旗
・「新型コロナウイルス」
・「社会保障」
・「消費税」
・「政治」
田中龍作ジャーナル
・「貧困」
「自民の改憲案が実現していたら、コロナ対策はどうなっていたの?」(note 2021年6月1日)
「ナンジ人民 家で死ね」(読む・考える・書く 2021年8月5日)
「第570回:「自宅療養」と言われても~路上の人がコロナ陽性になったあるケース。の巻(雨宮処凛)」(マガジン9 2021年9月22日)
「自宅放置死250人は「人災」 英米のコロナ対策を知る日本人医師が指弾」(AERA dot. 2021年9月23日)
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