『八月の狂詩曲』公開30周年 黒澤明が見つめた原爆の記憶

こんにちは、タムラゲン (@GenSan_Art) です。

『八月の狂詩曲』(1991) 監督:黒澤明 原作:村田喜代子 出演:村瀬幸子 吉岡秀隆 RHAPSODY IN AUGUST (1991) Directed by Akira Kurosawa / Cast: Sachiko Murase イラスト:タムラゲン Illustration by Gen Tamura

イラスト:タムラゲン Illustration by Gen Tamura

30年前の今日 (5月25日) は、黒澤明の映画『八月の狂詩曲(1991) が公開された日です。

夏休みを田舎の祖母の家で過ごすことになった4人の孫の微笑ましくも切ない体験を描いた感動的な佳作です。最初は田舎の生活を嫌がっていた孫達は、祖母の過去を辿っていく内に、次第に長崎に投下された原爆とその被爆者の静かな苦悩を知っていきます。

 

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『八月の狂詩曲』について

八月の狂詩曲
Rhapsody in August
1991年5月25日 日本公開
黒澤プロダクション・フィーチャーフィルムエンタープライズ 製作
松竹 配給

カラー、ビスタビジョンサイズ、98分

スタッフ

監督:黒澤明
脚本:黒澤明
ゼネラルプロデューサー:奥山融
プロデューサー:黒澤久雄
原作:村田喜代子『鍋の中』
演出補佐:本多猪四郎
アソシエートプロデューサー:井上芳男、飯泉征吉
撮影:斎藤孝雄、上田正治
美術:村木与四郎
照明:佐野武治
録音:紅谷愃一
効果:三縄一郎、斉藤昌利
衣裳:黒澤和子
音楽:池辺晋一郎
プロダクションマネージャー:野上照代
プロダクションコーディネーター:末弘嚴彦
助監督:小泉堯史
製作担当:熊田雅彦
題字:今井凌雪

キャスト

鉦(お祖母ちゃん):村瀬幸子
縦男(良江の息子):吉岡秀隆
たみ(忠雄の娘):大寶智子
みな子(良江の娘):鈴木美恵
信次郎(忠雄の息子):伊崎充則
忠雄(鉦の息子):井川比佐志
良江(鉦の娘):根岸季衣
登(良江の夫):河原崎長一郎
町子(忠雄の妻):茅島成美
クラーク(鉦の甥):リチャード・ギア

あらすじ

ある夏休みの間、長崎市から離れた山村に住む鉦は4人の孫と過ごすことになりました。ハワイで農園を営む鉦の兄・錫二郎が死ぬ前に鉦に会いたいという便りが届いたので、鉦の息子と娘が代わりにハワイに行きました。錫二郎を思い出せない鉦はハワイ行きを渋ります。孫たちは、原爆関連の長崎市街を見て回り、祖母に共感するようになります。やがて、錫二郎の息子のクラークが来日します。クラークは鉦に、叔父が原爆で他界したことを知らなかったことを謝ります。父の訃報を受け取ったクラークは帰国します。錫二郎の死を悲しむ鉦の意識に異変が起こります。豪雨の中、鉦は長崎に向かって駆けていき、孫や息子たちが後を追いかけていくのでした。

予告篇

 

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黒澤明の反核

『八月の狂詩曲』と言えば、必ず話題になるのが長崎の原爆です。

黒澤明は祖母と孫の交流がこの映画の主題だと繰り返し語っていましたが、実際に映画を観れば原爆の悲劇を否応なしに感じずにはいられません。

事実、黒澤明は、核兵器や原発など核に強く反対していました。『生きものの記録』(1955) では核戦争に無関心な日本人を、『夢』(1990) では原発事故と放射能汚染を、そして『八月の狂詩曲』では長崎の原爆の記憶を描きました。

ガルシア=マルケスとの対談

『八月の狂詩曲』が撮影中だった1990年10月5日と10月21日に、黒澤明とガルシア=マルケスとの対談がホテルオークラにて行われました。

この対談の白眉は、何といっても二人が核の是非について激論を交わした2回目の対談です。(因みに、同席した映画評論家の草壁久四郎も長崎原爆の被爆者でした)

人間は核をコントロールできるかもしれないと言うガルシア=マルケスに対し、黒澤明は真っ向から反論します。広島と長崎への原爆投下や、チェルノブイリ原発事故などを例に挙げ、人間は絶対に核をコントロールできないと黒澤は強く主張していました。

「宝石」(光文社) 1999年6月号 「激論 黒澤明vs.ガルシア・マルケス 第二部 核をめぐる論争 人間が核を制御(コントロール)できると考えるのは傲慢だ!」

「宝石」(光文社) 1999年6月号

以下は、黒澤明の発言の一部です。(出典は全て『宝石』(光文社) 1999年6月号です )

「(原爆)を現実に使って、そのあとで核の時代、冷戦の時代に入ったわけでしょう。それ以降、核をこしらえるために世界中が幸せになれるぐらいのお金を使っているわけだよね、ソ連とアメリカがさ。あの原爆ってのはそういう時代のそもそもの出発点だった」 

「日本人はあまりにも悲惨な、ああいう(原爆関連の)話が嫌いなのよ。観たがらないの。ぼくの作品のなかで唯一の赤字の作品がこれ。(『生きものの記録』)
 それと同時に、日本の政治家というのは、アメリカにいわば媚びているでしょう。そういう題材を映画にするのは、ずいぶん難しかった」 

「そこ(東海村)で、もしチェルノブイリみたいな事故が起こったら、日本中の人が日本にはいられなくなるんですよ。四方を海に囲まれているから、逃げられない。それなのに、それをやっている。しかも、どんどん増やしてる。だから人間がね、人間の手に負えないものに手を出すっていうのは、間違いよ」 

「今度、この仕事(『八月の狂詩曲』)をするんでいろいろ調べたんだけれど、長崎に原爆を落とされたときに助かった人たちが、なぜ長崎について言いたがらないのかっていうと、自分が助かるために親や子供も見捨てちゃったし、自分の兄弟も見捨てたし、通りを歩いていたら「水、水……」って言って自分の足を掴まれたけれども、それさえ振り切って逃げた。それに対する自分のね、ああ、すまなかったっていう気持ちがあって……」

「身近に原子力発電所なんかがあればやっぱり考える。いちばん考えるのは、まず母親だよ。たとえば、食べ物にどのぐらい放射能が含まれているのか、とかね。子供がいて、やがて孫も生まれてくるわけでしょう。ぼくはいいよ、その犠牲になって死んでもいいけどさ。子供や孫をそんな目に遭わせるわけにはいかない。人間にはもっと幸せに生きていく道があるんだから。戦争にしても何にしてもそうだけど、何か事を起こしたり、悪いことをするときには、必ず「人類のため」って言うんだよ」 

この対談の要約は、翌年1991年6月23日付の「ロサンゼルス・タイムズ」に黒澤の許可を得て発表されました。(この対談を最初に活字化したのが日本ではなくアメリカのメディアだったというのは皮肉な話です)
 
尚、この対談は、『大系 黒澤明 第4巻』(講談社) にも収録されています。

原発の危険性

黒澤明の発言の中でも特に注目すべきなのは、原発は危険であり他の安全なエネルギーに転換すべき、という主張です。

「ある人は、もし原発がそんなに安全なんだったら、どうして東京都の中へ作らないのかと言っている。あれはすごい熱量を出すわけだからね、それを利用すれば、東京の暖房は全部賄えるはずなんだよ。でも作らない」(『宝石』1999年6月号)

黒澤のこの発言は、広瀬隆の著書『東京に原発を!』が基になっていると言われています。

これは重要な指摘です。

なぜなら、東京都で消費する電気を、わざわざ福島県のような離れた海岸に原発を建てて、途中の送電線で膨大な電気を無駄にしているからです。

黒澤が言うように、原発は事故を起こさなくても、核燃料の熱を冷やした後の大量の温排水を海に垂れ流して海水温を上昇させ環境を破壊しています。

事実、若狭湾では、高浜原発が停止したことによって、海水の温度が元に戻り、南の海から来て住み着いた生物が去り、本来の若狭湾の生態系へと戻りました。

「高浜原発運転停止で海に異変 京大舞鶴水産実験所 益田准教授 内浦湾で潜水調査 今冬 南方系の魚貝、衰弱か姿消す 温排水の放水止まり【舞鶴】」 – Maipress-マイプレス- 2012年5月11日

また、そうした資源の無駄使いをしてまで東京の電気を福島で発電することは、事故の際に地方を見捨てて都会の被害を軽減しようという意図が明白です。

原発が差別で成り立っていると言われる所以です。

こうした危険性や不正にまみれた原発も核兵器と同じく人類の手に負えないものであることは、黒澤にとって自明のことでした。

そして、ガルシア・マルケスとの対談で、黒澤明が懸念していた原発の危険性は、2011年3月11日の東日本大震災で現実のものとなりました。

東京電力の福島第一原子力発電所がメルトダウンして爆発したときは、誰もが『夢』の第6話「赤富士」の予言性に驚きました。しかも、映画と同じ三種類の放射線(プルトニウム239、ストロンチウム90、セシウム137)までもが放出され、東日本や東北の海を汚染してしまいました。

更に、放射線汚染から避難するか否かで意見が対立し家族や地域社会が分裂・崩壊してしまう様は、『生きものの記録』そのものです。

『夢』の原発批判に対して「映画を撮るのにも原発の電気が必要だ」という的外れな中傷もありました。ですが、日本国内の電力は火力発電が主流で、原発が無くても電気は足りることは原発事故後に国内の原発が全て停止しても電力供給に何の問題も無かったことで実証されています。

又、原発推進派は「火力に依存すると石油が云々」と言いますが、原発も建設・廃炉・燃料の採掘と精製・核のゴミ処理などで石油を消費しています。その上、それらの過程でCO2も出すので温暖化対策にもなりません。何より増え続ける放射性廃棄物は今も完全な処理方法が見いだせない有り様です。

そして、原発は安くもありません。推進派は「国富の流出」とか「燃料費が高い」などと火力発電を目の敵にしていますが、原発こそ事故の賠償は勿論、核のゴミ処理や廃炉費、巨額の広告費も含めれば、火力よりコストが高すぎて経済的にも割に合いません。

要するに、原発は電力、環境、経済など全ての面で無用の長物なのです。

こうした原発批判を「ゼロリスク信仰」と揶揄する人もいますが、3.11前は「絶対に事故は起こらない」「原発は安い」などと安全神話で地元住民や消費者を騙しておきながら、東電の原発事故後は被害者を中傷したり詭弁を弄して責任逃れをする卑怯な原発容認派に反対派を批判する資格などありません。

東電原発のメルトダウンから10年が過ぎましたが、まだ核燃料は取り出せず、汚染水は増える一方で、数万人もの被害者は故郷を奪われたままです。史上最悪級の原発事故を起こしても被害者への賠償を渋る東電の責任者は誰も逮捕されないというのは不条理としか言いようがないです。

廃炉が決まった福島第一原発の4基を除いても、日本中にまだ50基もの原発が残っています。他の原発の避難計画も杜撰なまま再稼働を強行しようとする動きが絶えません。その上、原発事故の被害者への賠償も不十分な中、汚染土の全国への拡散や、汚染水の放出などという愚行まで進められています。

富士山の噴火や南海トラフ大地震などの危険性が指摘されているのですから、一刻も早く全ての原発を廃炉にするべきです。

かつて被爆国であった日本が、自国の核発電の放射線で国土を汚染し人々を被曝させているこの惨状を、天国の黒澤明はどんな気持ちで見つめているのでしょうか。  

 

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原爆を巡る議論

前作『夢』と同様に、『八月の狂詩曲』は核兵器反対を訴えていましたが、黒澤は「反核」が『八月の狂詩曲』のテーマと見られることを繰り返し拒んでいました。黒澤自身が核兵器や原発に強く反対する発言をしていたにも関わらずです。

原作との比較

村田喜代子と黒澤明の違い

『八月の狂詩曲』は、公開当時に原作者の村田喜代子から批判されたことも話題になりました。

「ラストで許そう、黒澤明」という彼女のエッセイのタイトルは、あらゆる媒体で引用され、後述する外国人記者からの批判とセットで、日本のマスコミが黒澤叩きの格好のネタにしていました。

ですが、『別冊文藝春秋』1991夏号に収録されたエッセイの全文を読むと、違った印象を受けます。

確かに、村田喜代子は、冒頭と結末の力強い映像を認めつつも『八月の狂詩曲』には批判的です。ですが、このエッセイが興味深いのは、単に小説と映画という媒体の違いだけでなく、小説家・村田喜代子と映画監督・黒澤明の資質の違いも的確に見抜いていることです。

かつて映画の脚本を勉強していた村田喜代子が小説家へと転身した理由を「目にみえるものによってしか表現することができない映画の、映像というものの、不自由さ」と表現しています。

村田喜代子「小説と映画は性質のまるで違う表現形式だ。映画は映像でみせる。小説は言葉でみせる。とくに私の小説など、目にみえないものばかり追っかけている。そのみえないものをいかにもみえたように書くのが、小説を作るときの醍醐味のようにおもっている。映画化にもっとも遠いところにある作品だ。」
― 「ラストで許そう、黒澤明」

『鍋の中』を執筆するときに村田が意識したのは、ストーリー、明確なテーマ、舞台のひろがりの排除でした。このように「低い声」で語ろうとする村田喜代子と、圧倒的な物量と熱量で押しまくる「力学の人」黒澤明が、良し悪しは別に、あらゆる面で正反対であることは明らかです。もっとも、『七人の侍』(1954) や『乱』(1985) のような大作と比較すれば、『八月の狂詩曲』の表現は遥かに大人しい方だと思うのですが。

原作『鍋の中』(1987) では、原爆に全く言及しないだけでなく、舞台の田舎がどこかも明記されていません。ですから、原作の祖母は標準語を喋ります。映画では鉦だった祖母の名前は、原作では花山苗。80歳。彼女も含めて、映画のように兄弟全員の名前に金偏が付いている訳ではありません。祖母のいちばん下の弟の名前は、原作では軸郎。映画では鈴吉。彼の気が狂ったかどうか原作では祖母の記憶は曖昧なままです。原作では、孫たちの両親は登場せず、クラークとも手紙でやり取りするのみです。映画では蟻が登る赤い薔薇が印象的でしたが、原作の薔薇は白色でした。

戦争観の世代差

更に、興味深いのは、戦争に対する姿勢の世代的な違いです。

村田のエッセイを読んで驚いたのは、黒澤によって映画化される前の1988年に『鍋の中』は飯沢匠によって舞台化されていたことです。しかも、主人公の花山苗を演じたのは『八月の狂詩曲』で鉦を演じた村瀬幸子でした!

舞台版『鍋の中』でも、原作には欠片も無い反戦メッセージが声高に訴えられていました。この改編について、飯沢は「私などの年代の人間には、どうしても戦争というものが時代的に入ってきて、それを抜きにしては語れないのです」と村瀬に語ったそうです。

舞台が上演された年の飯沢匠 (1909-1994) は79歳で、『八月の狂詩曲』撮影時の黒澤明 (1910-1998) は花山苗と同じ80歳でした。

村田喜代子は、1945年生まれです。戦前生まれの飯沢、黒澤と、戦後生まれの原作者では、戦争に対する姿勢も異なるのは当然かもしれません。

間接描写の集大成

では、何故このように対照的な作風の小説を黒澤は映画化しようと思い立ったのでしょうか。

『鍋の中』の結末で孫が祖母を追いかける描写が映画のラストになると黒澤は思ったそうです。(『現代』1991年5月号) 原作では、雨の中、語り手の たみ が祖母を追うだけの淡々とした描写だったのが、映画では『七人の侍』のような暴風雨の中、傘をおちょこにしながら進む祖母を、孫とその両親が懸命に駆けながら追うという黒澤らしい豪快な画になっていました。

「ラストで許そう、黒澤明」という村田喜代子の言葉が広められたせいか、「ラストだけは良かった」というレビューをネットでも見かけることがあります。

ですが、その見方は、まるで『七人の侍』の前半の侍集めが退屈と言うのと同じくらい底が浅いです。『七人の侍』の後半の戦闘が盛り上がったのは、自衛するしか選択肢が残されていない農民の苦境と、武士たちが防衛の準備を整える過程を入念に描いていたからに他なりません。

同様に、『八月の狂詩曲』のラストで暴風雨の真っ只中を祖母が駆けて行く映像が多くの人達の胸を打ったのは、最初は記憶が曖昧だった祖母が、次第に自分の親族だけでなく原爆の記憶を蘇らせ、ただ一人のこっていた兄の死に目に会えなかった哀しみを境目に、自分の夫が殺害された原爆投下のその日の自分になってしまったからです。

物語の重要な出来事を直接描くのではなく、クロード・ランズマンの『SHOAH』(1985) のように、間接描写によって見せることを黒澤明は繰り返してきました。『野良犬』(1949) の犯人の過去、『白痴』(1951) の銃殺刑、『七人の侍』の野武士の蛮行、『生きものの記録』の核戦争の恐怖、『蜘蛛巣城』(1957) の城主暗殺、『悪い奴ほどよく眠る』(1960) の主人公の殺害、『天国と地獄』(1963) の誘拐犯の共犯殺害、『赤ひげ』(1965) の狂女の告白、そして『影武者』(1980) の長篠の戦い、等々。

凄惨な場面を描くことには限度がありますし、映像だけでは観客には本当の苦しみは伝わりにくいこともあります。黒澤も次のように語っています。「戦争を撮っても客席に弾は飛んでこないから、アクションとしておもしろいだけで、いくら反戦だといっても戦争奨励映画でしかないでしょう」(『ELLE Japon』1991年4月5日号) と。

ですから、その状況を丹念に積み重ねて観客の想像力に委ねていくことによって、映像の限界を超えた衝撃を与えることが出来ます。黒澤明が強靭な映像の監督であるのは間違いないですが、その映像は単に対象を見せ付けるだけではなく、目に見えるもの以上のものを想像させる演出でもあるのです。

原爆投下の日の祖母を観客にありありと想像させるために、彼女の記憶を丹念に辿っていく描写を積み重ねた『八月の狂詩曲』は、そうした黒澤の間接描写の集大成としても大いに評価されるべき作品だと思います。

ゴジラと反核テーマ

核兵器を嫌う黒澤明が『八月の狂詩曲』を「反核」として見られることに抵抗感を示すことで思い出すのは、ゴジラと反核テーマです。

ゴジラ・シリーズ第一作『ゴジラ』(1954) を「反核」映画として見るか否かは、評論家だけでなく、ゴジラの熱心なファンの間でも議論の的になることが多いです。

グッドモーニング、ゴジラ 監督 本多猪四郎と撮影所の時代 (復刊版)』(国書刊行会) の著者・樋口尚文は、世評で言われる程『ゴジラ』には「反核」のメッセージは無いと主張しています。そして、「長いあとがき」にもあるように、当の本多も『ゴジラ』は反戦・反核のテーマではないと語ったそうです。

では、『ゴジラ』が所謂「反核」から全く無縁かというと、それも正しくないと私は思います。

そもそも「水爆大怪獣映画」と銘打たれた『ゴジラ』には、1954年3月のビキニ環礁での米国の水爆実験に恐怖した当時の世相が色濃く反映されています。ゴジラ自身が水爆実験によって突然変異したジュラ期の恐竜であり、行く先々の土地や水を水爆の放射能(ストロンチウム90)で汚染していきます。長崎の原爆から命拾いした女性が、ゴジラの脅威からの「疎開」を話し合う場面もあります。そして、ゴジラによって焦土と化した東京に溢れる夥しい数の被災者の中、ゴジラの放射能に被曝した幼い少女にガイガーカウンターが反応する痛ましい場面。

たとえ本多が「反核」を意図しなかったとしても、これらの場面を恐怖と悲しみで描写する映画に、核に対する恐怖と憤りを感じない人がいるでしょうか?

どのような要因や経緯であったにせよ、第二次世界大戦の敗戦から僅か9年後に制作された『ゴジラ』には、原水爆の脅威を身近に感じていた「時代の空気」を映さずにはいられない何かがあった筈です。しかも、中国で敗戦を迎えて帰国した本多は、汽車で帰郷中に原爆で壊滅状態の広島を目撃して愕然としたそうです。

1984年の復活以降のゴジラ映画の反核メッセージがどこか取って付けた様な空々しさを覚えるのに対して、第一作『ゴジラ』の原水爆や放射能に対する恐怖が今も生々しく感じられるのは、このように「時代の空気」を違和感なく映画的に表現していたからだと思います。

私の主観ですが、黒澤の『八月の狂詩曲』に対する姿勢と、本多の『ゴジラ』に対するそれは、どこか似ているような気がします。二人にとって、「反核」はあまりにも自明なことであり、ことさら自分から話すまでもなかったのではないでしょうか。

観客が映画を心から楽しみ純粋に感動する中でこそ、監督が伝えたいことは自然に感じ取ってもらえます。頭でこしらえた「テーマ」や「メッセージ」はプロパガンダに過ぎないから、表層的で忘れられやすいからです。映画から受けた興奮や恐怖、悲しみ、喜び、感動は、容易に消え去りはしません。そして、そこから自分で考えて行動していくことこそが長く続いていきます。

海外からの批判

『八月の狂詩曲』が公開された当時、米国を含む外国の記者から「日本軍の戦時中の残虐行為が描かれていない」などの批判的意見も相次ぎました。

確かに、戦争中の日本軍の残虐行為は当時でも国際法違反でしたし、現在の日本では今も十五年戦争の暗黒面を否定しようとする勢力が後を絶たないのも問題です。ですが、黒澤も言っていたように、長崎の被爆者を描いた『八月の狂詩曲』が糾弾していたのは核兵器の非人道性そのものですから、その批判は的外れだと思います。

しかも、外国人記者の批判に便乗して日本のマスコミまで黒澤を誹謗中傷したことに私は憤りを覚えました。そうした日本人の記者たちは、米軍の原爆による日本人の大虐殺を肯定するつもりなのでしょうか(怒)

映画評論家の多くは、孫たちが教育番組のように理想化されすぎているとか、大人の描写が単純すぎるといった判で押したような批判をしていました。孫たちの描写はさて置き、映画のように日和見主義な大人なら現実にいくらでも目にします。黒澤の『羅生門』がヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞すると、大映の永田雅一社長をはじめ黒澤に批判的だった人達が掌を返したかのように態度を一変させたのは有名な話です。社会的地位の他にも、国際的な某レストラン・ガイドに掲載されたり、高額な宝くじに当選したりすると、周囲の態度がコロッと変わるのはよく聞きます。

又、尾形敏朗は、滝壺の水面を泳ぐ蛇の目と「ピカの目」とを関連付けるのが不自然だとか、信次郎がクラークの身長をジョン・ウェインに例えるのが時代錯誤だと重箱の隅をつついていました。

まぁ、どちらもその通りだと思いますが、そんな些末な欠点を差し引いても、『八月の狂詩曲』で描かれた夏休みの世界は瑞々しく、晩年の黒澤映画としては興行的にも好調でした。更には、後述するように、原爆を巡る批判をものともせず、アメリカの観客も魅了しました。

米国での鑑賞記

1991年6月9日(日)、『八月の狂詩曲』を今はなき高松松竹で初めて鑑賞した私は、翌年の1992年2月14日(金) に、アメリカ西海岸の某州にあるアート系の小さな映画館で再び鑑賞しました。

上映開始(午後7時)の1時間前に映画館に着いたときには、もう人だかりが出来ていて、30分前には映画館の隣の信号にまで届く長さの行列が出来ました。その殆どが白人で、約100人はいた筈です。

6ドルのチケットを買って入場。劇場内の殆どの席が埋まっていて、上映開始前には、ほぼ満席となりました。私は、最前列から2列目の中央に座りました。

午後7時に上映開始。日本語の台詞に英語字幕付き。冒頭のタイトルにリチャード・ギアの名前が出ると、客席から “What?” という戸惑いの声と笑いが漏れました。

冒頭から、アメリカ人の観客は、映画の軽やかなユーモアを日本の観客以上に笑って楽しんでいました。

私が一番気にしていた長崎の平和公園で、孫の一人が「アメリカが原爆を落としたのよ」と言う場面には、軽く笑いが出たぐらいで、拍子抜けするほど呆気ない反応でした。

そして、ラストシーンで画面が暗転しタイトルが流れ出すと、満場の大拍手。観客の女性の何人かは感動のあまり号泣していたほどでした。

これには驚きました。まさか、アメリカが原爆を投下したことに言及する映画を日本の映画館の観客よりもアメリカ人の観客の方が感動したとは。

次の回も続けて見ましたが、やはり観客の反応は同じでした。

数年後、割と「アメリカ万歳」的なアメリカ人の知人の一人も『八月の狂詩曲』を非常に気に入っていることを知り、意外に思いました。私が「原爆の場面は反米的と思わないか?」と聞いても、「この映画のどこが反米なんだ?」と驚かれたぐらいです。

原爆の是非

勿論、全てのアメリカ人が『八月の狂詩曲』に好意的という訳ではありません。

基本的に、アメリカで公開される映画の中で、外国語映画の占める割合は1%にも満たないぐらいほど、アメリカ人は外国語映画を見ません。(アメリカ人の多くは字幕付きの映画を嫌がるからです)ですから、『八月の狂詩曲』を見て感動したアメリカ人も、外国語映画に慣れたごく一部の層に限られているのは想像でます。

2016年5月27日、当時のアメリカ合衆国大統領バラク・オバマが広島平和記念公園を訪問し、核兵器の廃絶を訴えたましたが、今でもアメリカ政府は、原爆投下を公式には謝罪していません。

2020年7月16日には、当時の大統領であったドナルド・トランプが原爆開発を正当化する声明を発表。現在の大統領ジョー・バイデンは、大統領選前の2020年8月6日に「広島と長崎の恐怖が2度と繰り返されないように、核兵器のない世界に近づくように努力する」という声明を発表しましたが、オバマの前例があるので、言葉だけでなく、行動で成果を出さない内は安易に評価は出来ません。

勿論、若い世代を中心に米国(米軍)の非道に批判的なアメリカ人もいますが、他国を蹂躙し続けている戦争を正義だと信じ込んでいるアメリカ人がまだ少なくない現状では、米国が原爆投下を謝罪する日はまだまだ遠いような気がします。

 

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 憎悪を克服する芸術

ですが、必ずしも悲観的なことばかりではないと思います。

第二次世界大戦後、日本に対する世界の目が厳しかった中、『羅生門』のヴェネチアでのグランプリ受賞をきっかけに、世界中が日本映画の質の高さに注目しました。

1976年、キャンベラのオーストラリア国立大学の客員教授を勤めた井上ひさし は、現地で対日感情が良くないのを感じていました。ですが、『デルス・ウザーラ』(1975) 公開を記念して「黒澤明週間」が大学で開催され、『隠し砦の三悪人』(1958)、『用心棒』(1961) 等が上映されると、その面白さに場内が熱狂の渦に巻き込まれたそうです。戦時中に収容所で3年間も日本軍から虐待されたオーストラリア人男性の一人は、『用心棒』を見終えた後、井上と握手して、日本人を許すと言ってくれたそうです。

井上ひさし 「この一本の映画(『用心棒』)が、その苦しみをいっぺんに溶かしてしまうことに感動しました。日本映画、特に黒澤さんの映画はこんな凄い力を持っている。我々が外務省から護られている以外に、黒澤さんの芸術の力によって私たちが外国で護られていることを痛感しました。外国の人がその映画によって、映画を介して日本の見方を変えた、そしてその面白い映画を作ってくれた仲間が日本人である。そのひとことで私たちに優しくしてくれるという体験をしました。」
― 「黒澤明監督を祝う会」(1990年5月23日) にて

又、日本軍に身内を殺されたオーストラリア人夫妻も日本人を憎んでいましたが、夫が所属するメルボルン交響楽団の指揮者となった岩城宏之の人柄と音楽に魅せられ、二人とも日本人が好きになったそうです。(『棒ふり旅がらす』)

現在は、漫画やアニメ等で日本に興味を抱いて好きになってくれる外国人は(全員がそうではないにしても)少なくありません。

かつて黒澤明は、「映画というものは、世界中の人が集まって親しく付き合ったり話し合ったりする、大きな広場のようなものだと考えています」と語っていました。(1994年・京都賞受賞記念講演)

近年は、新型コロナウイルス (COVID-19) の影響で、アジア人に対する差別が急増するなど、相変わらず世界中で偏見や憎悪は絶えません。

そんな中であっても、映画や音楽などの文化の力によって、国籍の異なる人達がお互いに理解して尊敬しあうようになっていくことも出来る筈です。

憎悪や偏見ではなく、理解と共感を広めていくことこそ芸術家の役目だと思います。

(敬称略)

 

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参考資料(随時更新)

書籍・記事

『棒ふり旅がらす』 岩城宏之、朝日新聞社、1984年

『鍋の中』 村田喜代子、文藝春秋、1990年

「「黒澤明監督を祝う会」レポート」半場茂・著、『キネマ旬報』 1990年7月下旬号、キネマ旬報社

『黒澤明 集成Ⅱ』 キネマ旬報社、1991年

The Conversation–Kurosawa and Garcia Marquez.” Los Angeles Times, June 23, 1991.

『巨人と少年 黒澤明の女性たち』 尾形敏朗、文藝春秋、1992年

『何が映画か 「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』 黒澤明、宮崎駿、徳間書店、1993年

「京都賞受賞記念講演 私の映画観 黒澤明」、『キネマ旬報』 1995年1月上旬号、キネマ旬報社

『黒澤明 音と映像』 西村雄一郎、立風書房、1998年

村木与四郎の映画美術 [聞き書き]黒澤映画のデザイン』 丹野達弥 編、フィルムアート社、1998年

『宝石』 光文社、1999年6月号

ヒバクシャ・シネマ――日本映画における広島・長崎と核のイメージ』 ミック・ブロデリック 編著、柴崎昭則・和波雅子 訳、現代書館、1999年

『黒澤明 夢のあしあと』 黒澤明研究会 編、共同通信社、1999年

『評伝 黒澤明』 堀川弘通、毎日新聞社、2000年

蝦蟇の油 自伝のようなもの』 黒澤明、岩波書店、2001年

『黒澤明を語る人々』 黒澤明研究会 編、朝日ソノラマ、2004年

大系 黒澤明 第3巻』 黒澤明 著、浜野保樹 編、講談社、2010年

大系 黒澤明 第4巻』 黒澤明 著、浜野保樹 編、講談社、2010年

グッドモーニング、ゴジラ 監督 本多猪四郎と撮影所の時代 (復刊版)』 樋口尚文、国書刊行会、2011年

『もう一度 天気待ち 監督・黒澤明とともに』 野上照代、草思社、2014年

黒澤明と三船敏郎』 ステュアート・ガルブレイス4世、櫻井英里子 訳、亜紀書房、2015年

銀幕のキノコ雲 映画はいかに「原子力/核」を描いてきたか』 川村湊、インパクト出版会、2017年

CD、DVD

CD『夢』『八月の狂詩曲』『まあだだよ』 池辺晋一郎、東宝ミュージック、AK-0014、2002年

DVD『八月の狂詩曲』 松竹株式会社、2002年

核兵器・原発メモ

これだけは絶対間違いは起こさないなんてどうして云えるんだろう。間違ったらおしまいだというのに。」(ウィンザー通信 2013年09月24日) ※『報道ステーション』(2013年9月20日放送) 「〝現代人への伝言〟 黒澤明 没後15年」文字起こし

黒澤明が直筆ノートに遺した反核メッセージ

原発問題 全般

原発が無くても電気は足りる!

原発は安くない

原発と石油

原発は温暖化対策にはならない(原発も二酸化炭素を排出する)

核燃料と放射性廃棄物(核のゴミ、死の灰)

放射能(内部)被曝の危険性

東京電力 福島第一原子力発電所事故 全般

福島第一原子力発電所事故の被害者への賠償を渋る東京電力

東京電力福島第一原子力発電所は(津波の前に)地震で壊れていた (そして、津波は予測されていた)

東京電力 福島第一原子力発電所事故 吉田調書

東京電力 福島第一原発事故 汚染水・放射能漏れ

フクシマ周辺の放射能汚染(チェルノブイリとの比較)

放射能汚染食品(農畜産物)

チェルノブイリ原発事故

UNSCEARの問題点

福島県の被曝と避難(水俣病との共通点)

東京電力福島第一原子力発電所事故の放射能汚染による被曝症状

原発事故関連死(または、その疑い)

除染の問題点

放射能汚染瓦礫の処分問題

原子力村と政府・司法の癒着

自民党と原発(核)

御用学者

原発とメディア

北海道電力 泊原子力発電所

四国電力 伊方原子力発電所

九州電力 川内原子力発電所・玄海原子力発電所

ヒロシマ・ナガサキからフクシマまで

核(人体)実験

原発を拒否した市民の力

再生可能エネルギー

海外の脱原発

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