こんにちは。タムラゲン (@GenSan_Art) です。
8月7日(月)、妻と一緒に広島へ行ってきました。
前回妻と二人で広島に行ったのは2016年10月ですので、約7年ぶりということになります。
「26年ぶりの広島と、山口での平原綾香ライブ」(旧ブログ 2016年10月8日)
広島日帰り旅行
往路
8月7日、月曜日、予定通り午前8時半頃に自家用車で出発しました。
台風が接近中でしたので朝から雨が降っていましたが、予報では午後から曇りになると出ていました。それに、気温が30℃を超える猛暑が続いていましたので、雨のおかげで26℃前後に下がってくれたのも助かりました。
瀬戸中央自動車道を通って瀬戸大橋を渡り、岡山県に入った後は山陽自動車道や中国横断自動車道、尾道自動車道などを走り、世羅ICで降りてから国道432号を走り、予定より少し遅れて午前11時過ぎに世羅町に着きました。
世羅町の知人宅
以前、香川県に住んでいた知人のSさん宅に徒歩で向かいました。Sさんとも約7年ぶりの再会。お互いの近況などを話しました。積もる話はありましたが、予定が詰まっていたので、11時半頃にお暇しました。
Sさんから貰った世羅町の歴史紀行の冊子。
世羅の歴史や観光名所が数多く紹介されていて、非常に興味深い内容でした。
大成龍神社
世羅町川尻にある大成龍神社へ参拝しに行きました。
国道432号を走り、途中から右折して ふれあいロードに入ります。三川ダムの辺りから急に道幅が狭くなり、辛うじて自動車一台が走れるほどの道を冷や冷やしながら進みました。
芦田川の畔に大成龍神社がひっそりと建っていました。
世羅町名誉町民であり日本の女子教育の草分けとも言われる大妻コタカさんが創建に関わり、その後も立身出世した人が多く出たことから「出世の神様」として近年注目を集めているそうです。
社殿の前にある坂を下ると、神農湖が見えます。
雨が降っていて風も吹いていましたので、今にも龍神様が出てきそうな雰囲気がありました。
巳徳神社
続いて世羅町本郷にある巳徳神社へ参拝しに行きました。
家内安全や商売繫盛など霊験あらたかな白玉龍神を祀る神社です。おみくじも大吉が出たので幸先が好さそうです。
サンマルク本店
世羅町で最後に向かったのは、本郷にある洋菓子店のサンマルク本店です。以前Sさんから貰った抹茶入りバターケーキ「せらケーキ」が美味しかったので、7年前と同様に今回もこのお店で購入しました。
サンマルクさんの洋菓子は、もみじ卵をはじめ、米粉、蜂蜜、きな粉など世羅町の原材料を使用して地産地消を実現しています。また、お正月以外は年中無休だそうですので、世羅町にお寄りの際はおすすめです。
広島平和霊園(中沢啓治さんのお墓)
世羅町を後にして、再び山陽自動車道を西に向けて走り、午後2時半頃に広島市に到着。予報通り雨も止んで曇りになりました。ロイヤルホスト幟町にて昼食を済ました後、広島平和霊園に行きました。
広島平和霊園は、広島市西区己斐の山並みの中腹に位置します。山の起伏を整備して総区画数が1万6千という大型の公園墓地です。
何故ここに寄ったのかというと、漫画『はだしのゲン』の作者・中沢啓治さんのお墓があるからです。
管理事務所で場所を教えてもらい、近くにあるお花屋さんで小さな花束を購入した後、坂道を更に上っていきます。ガーデニング樹木葬の隣に中沢さんのお墓はありました。
中沢さんが2012年に他界してから11年になりますが、実際にお墓を目にすると、本当にこの世にはもういないことが現実として感じられて改めて寂しくなりました。
『はだしのゲン』と言えば、核兵器の恐ろしさを描いた名作であると同時に、戦中と戦後の日本人の悪行も赤裸々に描いたことによって日本会議などの極右勢力からも執拗に攻撃されています。
2011年に鳥取市中央図書館が児童書コーナーから貸し出しカウンター裏の事務室内に別置きにしたり、2013年に松江市教育委員会が小中学校に対して学校図書館での閲覧や貸し出しを中止するように要請したりするなど、教育の場から遠ざけようとする動きが絶えません。今年も、広島市教育委員会が児童向け教材「ひろしま平和ノート」から『はだしのゲン』を削除されてしまいました。
もっとも、いくら極右勢力が『はだしのゲン』を封殺しようとしても、その反動で書店での売り上げは急増するので、名作は不滅です。
中沢さんのお墓からは広島市が一望できます。
中沢さん、あなたが遺してくれた『はだしのゲン』は私を含め世界中の人達に核兵器と恐ろしさと戦争の無意味さを伝えてくれました。今も世界に戦火は絶えず、核兵器廃絶への道のりもまだまだ遠いですが、世界に平和が訪れる日まで、命ある限り戦争と核に反対し続けていきます。
広島平和記念資料館
最後に今回の旅行の本命である広島平和記念資料館に来ました。
驚いたのは、私達が到着した午後6時前でも、エントランスホールにはチケット売場に長蛇の列ができていたことです。その殆どが外国人でした。
今年の5月にはG7広島サミット2023が開催されたからでしょうか。8月6日には平和記念式典があったので一日ずらして7日に広島を訪れる予定を立てましたが、ここまで外国人観光客が大勢来館するのは想定外でした。
広島平和記念資料館は、2017年に東館が、2019年には本館がリニューアルオープンしたので、私達がリニューアル後に訪れるのは今回が初めてでした。
被爆再現人形が撤去されるなど展示内容が小綺麗にされるのでは、という不安も感じながら入館しました。
結論から言うと、確かに設備が一新されたので館内は綺麗で見やすくなりましたが、被爆の恐怖が全く無くされた訳ではなかったと思います。被爆して火傷を負った人達の写真は何点もありましたし、私が小学校の修学旅行で見て大きな衝撃を受けた「死の斑点が出た兵士」の写真も展示されていました。
当時広島にいたアメリカ兵の捕虜や海外からの留学生など原爆投下によって命を落とした外国人も少なくなかったことも紹介されていました。
又、有名な佐々木禎子さんの生涯の他に、「N家の崩壊」と題された被爆症状で苦しみ続けた漁師のNさん一家の悲劇を紹介した写真など、原爆は戦後も被爆者を蝕むことを伝える内容は重要だと思います。
東館1階の企画展示室では、企画展「広島戦災児育成所 ―子どもたちと山下義信―」が展示されていました。
僧侶でもあった山下義信は、1945年12月に広島市郊外の佐伯郡五日市町に、私財を投じて広島戦災児育成所を建てて、原爆孤児を中心に多くの疎開児童や戦災孤児を育成しました。1947年には広島県選出の国会議員として社会福祉に関する法整備に熱心に取り組みました。
企画展「広島戦災児育成所 ―子どもたちと山下義信―」は、今年の9月11日(月)まで開催中です。
その他にも盛り沢山の展示内容でしたが、来館者が多い上に、午後7時の閉館まで約1時間弱しか居れませんでしたので、全ての展示をじっくりと見て回ることは出来ませんでした。仕方ないので、ミュージアムショップで総合図録を購入しました。
広島平和記念資料館を出て平和記念公園を歩くと、広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)の前にも長蛇の列が出来ていました。しかも、見たところ全員外国人でした。
私と妻も並びました。前後から聞こえてくる話し声に耳を傾けると、英語の他にスペイン語や韓国語なども聞こえてきました。慰霊碑の前では一組ずつ各々の作法で黙祷を捧げていました。ある外国人女性は跪いて祈っていました。
私と妻も慰霊碑の前で手を合わせました。
原爆ドーム
ここまで来たからには原爆ドームを見ない訳にはいきません。
本来は広島県の様々な物産を展示するために建てられた広島県産業奨励館が、今では核兵器の恐怖を象徴する「原爆ドーム」として世界中の人々に知られていることに歴史の皮肉を感じます。
ウラン型原子爆弾を投下して女性や児童を含む十数万人もの民間人を虐殺した米軍の行為は、紛れもなく人道に反する非道だと思います。ですが、同時に、日本も軍国主義に走り十五年戦争の間に主にアジア圏の人達を殺傷して甚大な被害を出しています。その上、敗戦確実となった戦争末期でもポツダム宣言を無視するなどいたずらに降伏を拒んだために、沖縄戦や東京大空襲などで自国民にまで夥しい死傷者を出し、駄目押しが二発の原爆投下になってしまいました。
戦後78年たちましたが、核兵器による抑止力を肯定する岸田文雄首相は核兵器禁止条約に批准しようとすらしていません。自民党は相変わらず憲法改悪を目論んでいますし、不安は尽きません。
「核(人体)実験」
「十五年戦争メモ」
帰路
平和記念公園を後にして、午後8時過ぎに かっぱ寿司 広島矢賀店にて夕食を食べました。駐車場から店内への自動ドアをくぐると、いきなり真上から空調の風が吹き付けられたのには驚きました(笑)
夕食後、午後9時過ぎに帰路につきました。
かっぱ寿司の近くの府中料金所から広島高速2号線に入り、広島東ICから山陽自動車道を東に向かって走り、瀬戸中央自動車道で瀬戸大橋を渡って香川県に戻りました。
余談ですが、午後11時を過ぎて瀬戸大橋を渡るのは初めてでした。殆ど他の自動車が走っていない中、東側(向かって左側)の夜空に輝く半月が瀬戸内海の海面に反射している夜景が川瀬巴水の版画のようで美しかったです。もっとも、走行中だったのに加えて、台風が接近していたせいか横風が強かったので、横の車窓から夜景を見る余裕など殆どありませんでしたが(苦笑)
「日帰り」旅行のつもりでしたが、帰宅したときには日付が変わって8月8日(火)の午前0時半頃でした。
約16時間の慌ただしい旅行でしたが、7年ぶりに広島を訪れることが出来て充実した一日でした。
コメント