こんにちは。タムラゲン (@GenSan_Art) です。
2016年7月29日は、映画『シン・ゴジラ』が公開された日です。
早いもので、劇場で観て衝撃を受けてから、もう5年も経ちました。公開当時はパンフレットに「ネタバレ注意」と書かれた封がされていましたが、公開後、テレビ放送やソフト化もされ、映画を鑑賞済みの人も多くなってきましたので、拙記事では『シン・ゴジラ』の結末などにも言及しながら、あれこれ思うことを綴っていきます。
『シン・ゴジラ』について
シン・ゴジラ
Shin Godzilla
2016年7月29日 日本公開
東宝映画・シネバザール 製作
カラー、シネマスコープ、119分
スタッフ
総監督:庵野秀明
監督:樋口真嗣
准監督:尾上克郎
脚本:庵野秀明
特技監督:樋口真嗣
特技統括:尾上克郎
製作:市川南
撮影:山田康介
照明:川邉隆之
美術:林田裕至、佐久嶋依里
録音:中村淳
音響効果:野口透
編集:庵野秀明、佐藤敦紀
音楽:鷺巣詩郎、伊福部昭
VFXスーパーバイザー:佐藤敦紀
キャスト
矢口蘭堂:長谷川博己
赤坂秀樹:竹野内豊
カヨコ・アン・パタースン:石原さとみ
志村祐介:高良健吾
尾頭ヒロミ:市川実日子
間邦夫:塚本晋也
安田龍彥:高橋一生
森文哉:津田寛治
花森麗子:余貴美子
財前正夫:國村隼
里見祐介:平泉成
東竜太:柄本明
大河内清次:大杉漣
ゴジラ:野村萬斎
あらすじ
東京湾に突如、巨大な生物が出現します。右往左往する日本政府をよそ目に、東京に上陸した生物は街を破壊しながら進行する途中で巨大化して海に姿を消します。政府は、生物を「ゴジラ」と命名し、内閣官房副長官の矢口蘭堂を事務局長とする「巨大不明生物特設災害対策本部」(巨災対) を設置します。数日後、更に巨大化したゴジラが鎌倉に上陸します。再び都内に侵入したゴジラを自衛隊と在日米軍が迎え撃ちますが、全く歯が立たない上、ゴジラの熱線によって東京は大規模な被害を受けます。エネルギーを使い果たしたゴジラは、東京駅で活動を停止します。米国は、ゴジラが活動を再開する前に核兵器で東京もろとも葬ることを主張します。核攻撃実行の日時が迫る中、巨災対のメンバーはゴジラを凍結させる「ヤシオリ作戦」の実現に向けて奔走します。
予告篇
『シン・ゴジラ』雑感
12年ぶりの国産ゴジラ映画
公開翌日の2016年7月30日(土)、『シン・ゴジラ』を妻と一緒に地元の映画館で鑑賞しました。
当時は12年ぶりの国産ゴジラの新作でした。独身時代に前作『ゴジラ FINAL WARS』(2004) を見たのが、つい先日のように思えました。正に光陰矢の如し。
結論から言えば、殆ど予備知識無しで『シン・ゴジラ』を早々に劇場で見れて本当に良かったです。ゴジラ・シリーズ全作品中でも第一作に匹敵するクオリティでした。驚くべきことに、ゴジラに全く興味の無い妻も『シン・ゴジラ』を非常に気に入ったので、8月20日(土)、妻と一緒に再び鑑賞しました。
2017年3月22日(水) には『シン・ゴジラ Blu-ray特別版4K Ultra HD Blu-ray同梱4枚組』が届いたので、同年3月24日(金) に本編を字幕付で鑑賞しました。
良かった点は数え切れないほどありましたが、同時に些か引っかかる点もありましたので、その両方を綴っていきます。
初代ゴジラの衝撃の再現
何と言っても、庵野秀明と樋口真嗣の鬼才コンビが、これまで凡打続きだったゴジラ・シリーズに新風を吹き込んだのが大きいです。
庵野の斬新な構想・演出と、樋口の見事な特撮は、ハリウッド版のゴジラ映画に少しも引けを取らないどころか、むしろ凌駕しているとすら思いました。庵野自身の『新世紀エヴァンゲリオン』に似すぎているという批判もあったそうですが、私は『エヴァ』を殆ど全く見ていないので、特に気になりませんでした。
庵野はまだしも、樋口も『シン・ゴジラ』が初のゴジラ映画というのが意外でした。『ガメラ 大怪獣空中決戦』(1995) に驚喜して以来、夢見ていた樋口特撮によるゴジラ映画を遂に見れて大いに満足しました。
『ゴジラ』(1954) 以降、これまでのゴジラ映画が全て第一作の続編(又は、ゴジラが既に認知されている)という内容でしたが、今回の『シン・ゴジラ』は、初めて「ゴジラを誰も知らない現代にゴジラが出現する」という設定総リセットでした。
これだけゴジラの知名度が浸透した日本で、「ゴジラを誰も知らない日本」の方がフィクションなのでは?と、最初は思いましたが、それは杞憂でした。
スタッフが官邸や自衛隊に対して綿密なリサーチを行っただけあって、官邸での会議や自衛隊とゴジラの戦闘は、過去のゴジラ映画とは比較にならぬ程リアルな描写でした。(もっとも、防衛大臣を勤めたことがある石破茂によるとツッコミどころが多々あるそうですが、これは空想科学映画なので多少は大目に見てほしい気もします。(「石破氏「シン・ゴジラは全然、リアルじゃない」」 – 日経ビジネスオンライン)
テレビの画面で観るBlu-rayの映像では銀幕の迫力は望めませんが、独特の構図や多数のテロップが把握し易くなります。しかも、ゴジラによる東京蹂躙の地獄絵図さえも整然として見えたのには驚きました。
そう考えると、テレビで映画の画面全体を視界内に収めて見るのは、構図を把握し易いのですが、良くも悪くも客観的になるような気がします。
やはり、怪獣映画は映画館で見ることで、あの荒々しく混沌としたエネルギーを体感できるのだと改めて実感しました。
映画と現実の落差
政府や自衛隊の描写が(怪獣映画としては)リアルだったせいか、『シン・ゴジラ』の政治的な位置が議論の的になることが多いです。
「政府が美化されすぎている」という声もあるようですが、1984年の『ゴジラ』等のように、昭和の頃からゴジラ映画では政府や政治家が現実より理想化されることが多かったので、今更という気もします。
むしろ、突然の巨大生物出現で右往左往する閣僚の描写だけでも『シン・ゴジラ』を見る価値があると思います。
ただ、3.11以降初の国産ゴジラ映画となった『シン・ゴジラ』が明らかに東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故をモデルにしている以上、映画で描かれた責任感溢れる政治家と現実の政府との落差も意識せざるを得ませんでした。リアルな描写であるからこそ、尚更この映画を単なるフィクションとして済ませられない面もあります。
「議事録が残るんだ」と矢口蘭堂を注意する大河内総理は、自分の身の安全より国民の生命を優先する人格者ですが、映画が公開された当時の安倍政権は公文書の隠蔽・廃棄を平気でする不誠実な政権でした。(「安倍政権の「公文書隠ぺい・廃棄問題」とは何だったのか、残された難題」 – 現代ビジネス、2020年9月15日)
その安倍晋三を引き継いだ現在の首相・菅義偉も、自著の改訂版から公文書管理の記述を削除したように、新型コロナウイルス感染症対策を検討する会議の議事録を作成していないなど不誠実な政策が相次いでいます。(「主張/森友公文書改ざん/菅政権は全容を公開すべきだ」 – しんぶん赤旗、2020年10月21日)
その上、新型コロナウイルスの感染拡大が現実のものとなっているにも関わらず、菅義偉は東京オリンピックを中止する選択肢は無いと放言する始末です。
政治家の描写が、危機的な状況でもかくあってほしいというスタッフ・キャストの善意であると私も信じたいですが、政府が原発事故や新型コロナウイルスの危機から国民を守らないという醜悪な現実から観客の目を逸らす危険性も否定できません。
同様に、自衛隊の描写に対しても議論がありました。
そもそも最初の『ゴジラ』(1954) から自衛隊(又は、架空の防衛組織)が活躍するのが怪獣映画の定番ですので、これも日本の怪獣映画の宿命的な課題かもしれません。
「実際にゴジラが現れた場合、自衛隊はどのように対処するのか」をリアルに描こうとした描写ですから、これを問題視するなら、過去のゴジラ映画で殆ど何の疑問も無く自衛隊を「活躍」させていたことまで議論の幅が広まってしまいます。(それはそれで議論の価値はあると思いますが…)
金子修介の『ガメラ監督日記』(小学館) によると、『ガメラ2 レギオン襲来』(1996) の公開前に、ガメラと自衛隊が共闘して宇宙怪獣を撃破する内容を酷評する読者からの投書が、赤旗日曜版に掲載され、監督の金子修介が抗議したことがあったそうです。日本共産党は、VSシリーズのゴジラ映画でも自衛隊の活躍も問題視していました。1998年のイグアナ映画に関しては、米軍礼賛とフランスに核実験の責任を押し付ける点を批判した点は、私も「赤旗」に同意します。もっとも、日本のゴジラを持ち上げる理由が「愛嬌がある」だったのには脱力してしまいましたが。
高松市の某商店街のイベントに自衛隊も参加していて、『シン・ゴジラ』とタイアップした自衛官募集のポスターも貼られていたのは、想定内とは言え複雑な気持ちになりました。
考えてみれば、最近でこそ「反戦」や「反核」というメッセージ込みで語られることの多いゴジラ映画ですが、過去には寧ろ逆の主張をしているのではと疑ってしまう作品もありました。『ゴジラVSビオランテ』(1989) では「原爆とゴジラにひどい目に合わされた日本がゴジラ細胞から核を超える兵器を作っても決して悪いとは思わんがね」という台詞があり、『ゴジラVSキングギドラ』(1991) では更に露骨に旧日本軍を美化して、大企業が自前の原子力潜水艦を使ってゴジラを復活させようとする無茶苦茶な内容でしたし、『ゴジラVSメカゴジラ』(1993) のGフォースはブラック企業並みのスパルタ組織でした。
『シン・ゴジラ』が自衛隊を賛美しているのは議論の余地がありませんが、過去のゴジラ映画と比べれば、この映画の自衛隊の描写はまだ「穏健」な方かもしれません。
実際に映画を見た日本共産党の小池晃も、それほど問題視していませんでしたし。
「シン・ゴジラ」見てきました。映画としては面白かったけど、うーーーん。
でも一部の方が言ってるような憲法9条否定の映画でも、緊急事態条項が必要だと主張している映画でもないことは確かですね。— 小池 晃(日本共産党) (@koike_akira) August 4, 2016
もう一つ『シン・ゴジラ』の特筆すべき点は、これまでシリーズ中では殆ど無視されてきた在日米軍を登場させたことです。
巨大イグアナを簡単に仕留めた米軍でしたが、さすがに日本のゴジラは同じようにはいきませんでした。それどころか、地中貫通爆弾(バンカーバスター)というイラク戦争で多数のイラク市民を殺傷した破壊兵器で深手を負ったゴジラは逆上して、口と背中(!)から熱線を乱射して米軍の爆撃機を全滅させたのみならず、港区・千代田区・中央区の市街地を火の海にしてしまいます。
ゴジラが熱線を吐く場面は、全編の白眉でした。過去にも東京を火の海にした初代ゴジラの破壊力をも凌駕する業火の惨状は巨神兵のようです。核の放射能によって自分の意志と無関係に怪物にされてしまったゴジラの人間に対する怒りの大放出。戦慄なくして見れない悪夢的な光景でした。
『シン・ゴジラ』の自衛隊と米軍の描写について、左右両方の層から憲法9条や安保法制を絡めて論じる人が少なくないのは分かりますが、右や左といった二分化で語れるような単純な内容でもないと思います。
この映画が徹頭徹尾政府側の目線で撮られていて、自衛隊を肯定的存在として描いているからと言って、この映画が憲法9条を否定したり日米安保を肯定していると決め付けるのも早計です。(そもそも、架空の存在である怪獣を理由に9条を含めて改憲を主張するのが無意味なことは自明です。)
ついでに言えば、日本国憲法が国外に対する効力を持たないことを批判するのも的外れです。なぜなら憲法9条は、日本政府が再び日本に戦争をさせないための安全装置だからです。かつて無責任で愚かな政治家や軍人が太平洋戦争で多くの国民を無駄死にさせた反省を踏まえて、権力者の悪政から国民を守るために9条を含めた日本国憲法が作られたのです。
矢口蘭堂も、ゴジラ駆除に楽観的な大臣に直言します。「大臣、先の戦争では旧日本軍の希望的観測、机上の空論、こうあってほしいという発想などにしがみついたために、国民に300万人以上の犠牲者が出ています。根拠のない楽観は禁物です。」 矢口が言う「先の大戦」が、アジア・太平洋戦争であるのは言うまでもありません。
『シン・ゴジラ』は、米軍を初めてゴジラ映画に登場させただけでなく、米国政府の傀儡に過ぎない日本政府の有様も描いていきます。
東京を熱線で火の海した後、ゴジラは、エネルギーを使い果たして一時活動停止状態になります。ゴジラが活動を再開する前に熱核ミサイルでの攻撃を主張する米国政府。米国に頭が上がらない日本政府と、東京での核兵器使用を回避しようとする政治家と科学者達の奮闘。
東京駅で活動再開したゴジラに血液凝固剤を注入する「ヤシオリ作戦」が決行されます。多数の無人航空機部隊がゴジラのエネルギーを消耗させます。無人在来線爆弾(!)をぶつけられ、爆破されたビルに押し倒されたゴジラに特殊車両部隊がストローのように凝固剤を無理矢理飲ませる場面は、シュールな面白さに満ちています。
ふと、ヤシオリ作戦の舞台がJR高松駅だったらなんて妄想してしまいました。ですが、サンポート高松の高松シンボルタワーは151メートルあるとは言え、高松駅から約100メートル離れていますので、118.5メートルのゴジラを転倒させるのは困難だったことでしょう。(JRホテルクレメント高松は高さが95メートルで、駅から約100メートル離れています。)
閑話休題。
日本政府がかなり理想化されているとは言え、覇権主義的な米国の言いなりにはならず、核兵器を避けて、犠牲者を極力出さない解決方法を取る展開は、単純な武力礼賛でも日米安保賛美とも言えないと思います。
放射能汚染の描写への疑問
3.11以降に制作された『シン・ゴジラ』でもう一つ気になったのは、ラストで、ゴジラが撒き散らした放射能の半減期が僅か20日であることが唐突に明らかになり、避難住民の帰還と東京の復興が楽観視された点です。
この不安は、エンディングのタイトルを見て、より現実のものとなります。
取材協力の対象者の中に、児玉龍彦の名前があったからです。東京大学 アイソトープ総合センター センター長、先端科学技術研究センター教授、医学博士である児玉は、原発事故後、国会で除染の必要性を熱弁したことで有名です。
しかし、除染とは言っても、広大な土地や森に付着した放射性物質を完全に除去するのは不可能です。除染作業により放射性物質を拡散してしまう危険性もあります。そして何よりも、洗い流しても放射性物質が無毒化される訳ではありません。結局は、放射性物質を別の場所に移してしまうのですから「除染」ではなく「移染」でしかないです。(事実、今年に行われた会計検査院の調査では、除染作業が行われた福島県の原発周辺の約1万2800カ所で、除染後の線量が除染前の数値を下回らず、除染の効果を確認できなかったことが判明しました。)
その上、東電の原発からは今も放射能漏れが続いているのだから、賽の河原に等しい惨状です。又、作業現場でのピンハネ等、労働環境での問題も尽きません。
そして、児玉と昵懇の関係で除染作業を依頼された竹中工務店も取材協力対象の一つなのですから、『シン・ゴジラ』が除染を楽観視する結末になってしまったのも無理ありません。
● 「除染の問題点」
● 「放射能汚染瓦礫の処分問題」
この放射能汚染に対する奇妙な楽観は、主人公達がゴジラの放射能に被曝する覚悟をする「ヤシオリ作戦」の後、主人公を含め誰も被曝など無かったかのようにピンピンしている描写にも通じています。
更に言えば、ゴジラが核エネルギーを吸収した海底の放射性廃棄物には放射性セシウムだけでなく、プルトニウムやトリチウム等も含まれていた可能性があります。(初代ゴジラは、水爆実験によるストロンチウム90に汚染されていました。) いくらゴジラの放射性物質が未知のものだとしても、半減期が20日で安心するのは、内部被曝の危険性を軽視していないでしょうか。
● 「放射能(内部)被曝の危険性」
『シン・ゴジラ』が徹底的に政府目線の映画であることに異議を唱えるつもりはありませんが、第一作への原点回帰を目指したのに夥しい市民の被害が殆ど全く描かれないことは今でも違和感が拭えません。
最初の『ゴジラ』(1954) では、ゴジラの放射能で汚染された井戸水や、ゴジラの猛威によって重傷を負った多くの犠牲者や被曝した少女の痛々しい姿は、短い描写であっても強い印象を残していました。
別に、映画のテンポを崩してまで市民の目線を入れる必要は無いですが、『シン・ゴジラ』ではゴジラの熱線で都市が焼き尽くされる強烈なイメージがありながらも、根本的な所で被害者の苦境を感じさせる何かが欠けているのは、監督の興味の対象が何処か別の所にあるようにすら感じてしまいます。
Blu-rayに収録された未使用映像の中に、ゴジラの尻尾に潰される市民や、熱線に焼かれる地下鉄内の群集の場面もあることから「庵野は犠牲者もちゃんと撮っていた」と擁護する声もありましたが、最終的に使用しなかった以上、映画には無かったものとして評価すべきではないでしょうか。
前述のように第一作では市民が犠牲になる場面が繰り返し描かれましたし、その後の『ゴジラ対ヘドラ』(1971) や『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001) や『ガメラ3 邪神覚醒』(1999) など、怪獣映画で多数の犠牲者が描かれるのは少しも珍しくないです。
勿論、過度の残酷描写は必要ありませんが、東日本大震災や原発事故をモデルにしてゴジラ映画の原点回帰を目指したにも関わらず、第一作の被曝した少女の痛ましさに匹敵する表現を避けたように見えてなりません。
早口の政治家や官僚達が活躍する映画のテンポを崩さないために、敢えて一般市民の目線を排除したのは映画的には正しいかもしれません。黒澤明の『乱』(1985) が武将達の物語に焦点を絞って農民達を一切描かなかったことに似ているような気がします。
しかし、『シン・ゴジラ』の日本政府は、現実に政府以上に国民を守る使命感に燃えているのに、その守るべき対象である国民は、点景として描かれるだけです。国会議事堂前のデモの群集に至っては揶揄しているかのような描写にすら見えます。
一瞬だけ描写される都内の抗議デモは「ゴジラを殺せ」と「ゴジラを護れ」と正反対な主張を両方同時に叫んでいました。
制作者サイドは一見中立を装っているようですが、デモの参加者を「その他大勢」の顔の無い衆愚として描き、政治家達は徹夜で激務をこなしている真摯なエリートとして対比しているのは明白です。実際、ツイッターでも、この場面のデモ参加者のことを「バカの一つ覚え」と嗤っていた人が少なからずいたのですから、「抗議デモの参加者=お上に楯突く五月蝿いクレーマー」という印象を観客与えているとしか思えません。
ついでに言えば、原発推進派は、反対派を「ゼロリスク信仰」と揶揄しますが、3.11以前は「絶対に事故は起こらない」とか「原発は安い」などと安全神話で消費者を騙しておきながら「いちえふ」のメルトダウン後は責任逃れをする卑怯な原子力ムラに反対派を批判する資格などありません。
『シン・ゴジラ』のラストは、凝固剤で活動停止したゴジラもいつまた動き出すか分からない不安要素を残して終わります。今も放射能漏れが続く東電の原発を象徴しているのかもしれませんが、停止したゴジラと違い、原発はメルトダウンした核燃料の取り出しも出来ず、チェルノブイリのような石棺化すら地層的に難しいのが現状です。事実上、半永久的に対処しなくてはならない賽の河原に等しいです。その上、自民党は、かつての「脱原発」の公約を平然と破って原発を推進している有り様です。
そして、『シン・ゴジラ』の取材協力者の一人でもある小池百合子が、映画公開から2日後の7月31日の東京都知事選挙に当選しました。余貴美子が演じた防衛大臣は、防衛大臣の経験もある小池がモデルなのかもしれません。原発再稼働のみならず核武装まで主張する小池は、日本最大の右派団体「日本会議」の一員であるなど筋金入りの鷹派です。『シン・ゴジラ』の監督やスタッフが小池から何を参考にしたのか不安は尽きません。
同様に、枝野幸男にも取材したそうですが、「(放射能は)直ちに影響は無い」という名(迷)文句も、映画の楽観的な除染に繋がったのでしょうか?松本義久(東京工業大学 准教授博士)のような御用学者にも取材していますし。
何よりも電通が「特別協力」として関わっているのが最大の答えかもしれません。数十年に渡って多種多様な広告を量産し続け、原発安全神話で消費者を洗脳してきた電通が原子力ムラに対して否定的な映画を許すとは到底考えられません。又、原子力規制庁が頼れる組織として無批判に描かれていましたが、御用学者が跋扈する中で本当に正確な情報を発表するのかも甚だしく疑問です。
そして、いくらゴジラの放射能が未知の新元素だからとは言え、僅か20日で半減することが唐突に明らかになる楽観的な結末も放射能汚染を大したことのないように思わせてしまっています。除染など現実には無意味なのに。
東電の原発事故から10年が過ぎましたが、核燃料の回収すらままならず、汚染水や汚染土は増える一方の現状は「アンダーコントロール」から程遠いです。
10年前の原発事故を当時の民主党政権のせいにする声は今も絶えません。確かに民進党にも問題がありましたが、そもそも日本中を原発だらけにしたのは自民党です。政権交代後も国民を被曝から守らず、原発をごり押しする自民党こそ悪質です。
放射能汚染や除染の描写に疑問を覚えるとは言え、『シン・ゴジラ』は原発の根源的な問題を提示しています。映画評論家の西村雄一郎も指摘するように、ゴジラとの最終決戦の舞台が、地方と首都が交差する場所である東京駅というのが象徴的です。
なぜなら、東京都で消費する電気は、東京電力が福島県の海岸に建てた原発で発電され、送電線で膨大な電気を無駄にしながら送られてくるからです。そうした資源の無駄使いをしてまで東京の電気を福島で発電することは、事故の際に地方を見捨てて都会の被害を軽減しようという意図が明白です。
原発が差別で成り立っていると言われる所以です。
岡本喜八と庵野秀明のズレ
こうした違和感の源泉を考えてみると、一つ思い当たる箇所があります。
原爆の放射能や日本を憎んで入水自殺した牧教授役で写真出演していた映画監督の岡本喜八です。
庵野は岡本の『日本のいちばん長い日』(1967) の大ファンですので、『シン・ゴジラ』でも独特の構図や編集、字幕の多用に同映画の影響が見て取れます。
ですが、政治家や軍人ばかりが登場する『日本のいちばん長い日』は岡本にとってどこか不本意なものであり、一般人の目線で語られる『肉弾』(1968) こそが岡本が本当に描きたかった映画でした。
この食い違いが、私が感じた違和感を象徴しているように思えてなりません。
何やら映画には直接関係ないことに熱くなってしまいました。
まぁ、肯定するにしろ否定するにしろ、『シン・ゴジラ』が熱く語りたくなる映画なのは間違いありません。
音楽 ― 伊福部昭の再評価
熱くなったついでに、最後に語りたいのは、音楽についてです。
鷺巣詩郎の音楽は、良くも悪くも、映画の進行を邪魔しない控え目なものでした。会議の場面で流れる『エヴァンゲリオン』でお馴染みの曲以外は特に印象に残らなかったのも、伊福部昭の既成曲を際立たせるためだったのでしょうか。
と、劇場では思いましたが、後日Blu-rayで鑑賞した際は、画面の威圧感が減じた分、鷺巣の音楽も耳に残りやすくなったと思います。
最初は伊福部昭の曲ばかりに気を取られましたが、改めて聴くと鷺巣の音楽も悪くないですし、個々の場面に適した曲揃いだと思うようになりました。
映画を見る前に、伊福部音楽が使用されるのは聞いていましたが、どの曲が選曲されたのかまでは知りませんでした。
幼虫モスラのように地面を這う第2形態のゴジラが変形する際に『ゴジラ』(1954) の「ゴジラ上陸」が流れた瞬間には心臓が止まりそうなほどドキッとしました。更に、第3形態になって立ち上がったゴジラは初代ゴジラの声で咆哮します。この場面は、原曲のアナログ音声が浮いて聞こえることで異形の生物の不気味さが更に際立っていました。単なる旧作へのオマージュや懐古趣味だけではない大胆な演出です。
第4形態となったゴジラが再上陸する場面で、『キングコング対ゴジラ』(1962) の「ゴジラ復活」に続いて、『メカゴジラの逆襲』(1975) の「ゴジラ登場」が流れます。キンゴジのテーマはまだ分かりますが、後者の「ドシラ、ドシラ」は正義ゴジラのテーマですので一瞬戸惑いますが、曲の流れ的には違和感ありません。
「ヤシオリ作戦」で流れるのは、意外にもゴジラ映画以外からの『宇宙大戦争』(1959) マーチでした。怪獣にやられっぱなしの人類が漸く効果的な反撃に転じた展開を最高に盛り上げていたと思います。
エンディングの「終曲」は、『ゴジラ』(1954)、『三大怪獣・地球最大の決戦』(1964)、『怪獣大戦争』(1965)、『ゴジラVSメカゴジラ』(1993) からそれぞれのメインタイトルがメドレーのように流れます。
ここは正直言って評価が分かれる所です。スタッフ・キャスト名がスクロールする画面に『ゴジラ』のメインタイトルが流れるのは第一作へのオマージュとして理解できますが、続く3曲は、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』のエンディングのように唐突な感じが否めません。
『シン・ゴジラ』の内容から鑑みて、怪獣に立ち向かう人間のテーマが選曲の基準かなと思いましたが、それですと『三大怪獣』が浮いてしまいます。
理由は何であれ、既成曲をただ繋げただけなので、本編のゴジラに付けられた伊福部音楽ほどの効果が感じられませんでした。仮に伊福部が存命でしたら、エンディング用に新曲を書き下ろすか、編曲をしていたと思います。
とは言え、映画館の大音量で伊福部音楽を聴けるのはファンにとって嬉しかったのも事実です。何だかんだ言いながらも庵野の術中にはまってしまったようで複雑な心境ではありますが(苦笑)
どこか魚の骨が喉に詰まったような気持ちが残るとは言え、伊福部昭の音楽が再び脚光を浴びるようになったことは、ファンの一人として嬉しいですし、『シン・ゴジラ』の面白さが過去のゴジラ映画を遥かに凌駕するのは間違いありません。
第一作目の『ゴジラ』に匹敵する怪獣映画の名作が遂に誕生したことは素直に喜びたいです。
(敬称略)
※この記事は、2016年と2017年の拙ブログ記事に、加筆修正を加えたものです。
「『シン・ゴジラ』雑感 ー 異色の傑作に対する複雑な思い ※ネタバレあり!」 2016年7月31日
「『シン・ゴジラ』Blu-ray 鑑賞記 ー 増幅される複雑な思い」 2017年3月27日
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核兵器・原発関連(随時更新)
「原発問題 全般」
「原発は安くない」
「原発と石油」
「原発は温暖化対策にはならない(原発も二酸化炭素を排出する)」
「東京電力福島第一原子力発電所は(津波の前に)地震で壊れていた (そして、津波は予測されていた)」
「東京電力福島第一原子力発電所事故の放射能汚染による被曝症状」
「除染の問題点」
「御用学者」
「原発とメディア」
「核(人体)実験」
「海外の脱原発」
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