こんにちは。タムラゲン (@GenSan_Art) です。
70年前の今日(11月3日) は、映画『ゴジラ』(1954) が公開された日です。
今や世界中の人が知っているキャラクターとなったゴジラも遂に古稀を迎えました。劇中では約200万年前から生息していたと説明されていましたが、デビュー作は70周年となります。
拙記事では、第一作の『ゴジラ』を中心に、ゴジラに対する個人的な思い入れを綴ります。
『ゴジラ』について
ゴジラ
Godzilla (Gojira)
1954年11月3日 公開
東宝株式会社 製作・配給
白黒、スタンダード、97分
スタッフ
製作:田中友幸
監督:本多猪四郎
原作:香山滋
脚本:村田武雄、本多猪四郎
撮影:玉井正夫
美術監督:北猛夫
美術:中古智
録音:下永尚
照明:石井長四郎
音楽:伊福部昭
特殊技術:圓谷英二 (円谷英二)、向山宏、渡辺明、岸田九一郎
監督助手:梶田興治
編集:平泰陳
音響効果:三縄一郎
現像:東宝現像所
製作担当者:真木照夫
キャスト
尾形秀人:宝田明
山根恵美子:河内桃子
芹沢大助:平田昭彦
山根恭平:志村喬
田辺博士:村上冬樹
萩原:堺左千夫
南海汽船社長:小川虎之助
政治:山本廉
国会公聴会委員長:林幹
大山代議士:恩田清二郎
対策本部長:笈川武夫
稲田 (大戸島村長):榊田敬二
新吉:鈴木豊明
老いたる漁夫:高堂國典
小沢婦人代議士:菅井きん
大戸島の娘:川合玉江
ダンサー (国電/遊覧船の女):東静子
山田くに (政治と新吉の母):馬野都留子
田辺博士の助手:岡部正
ダンサーの連れの男 (国電 / 遊覧船の男):鴨田清
海上保安庁係官:今泉廉
テレビ塔のアナウンサー:橘正晃
GHK実況アナウンサー:帯一郎
大戸島島民:堤康久
大戸島島民:鈴川二郎
しきねのGHK実況アナウンサー:池谷三郎
ゴジラ、毎朝新聞デスク:手塚勝巳
ゴジラ、毎朝新聞記者、変電所技師:中島春雄
あらすじ
貨物船が相次いで沈没する怪事件が多発します。唯一生存した大戸島の漁師の山田政治は、巨大な生物が原因だったと記者に証言します。その夜、暴風雨の中、巨大生物は大戸島に上陸して村に壊滅的な被害を出し、政治も母と共に犠牲になります。
この事件を調査するため、古生物学者の山根恭平博士が率いる調査団が島に派遣されます。山根博士の娘・恵美子と彼女の恋人で南海サルベージ所長の尾形秀人たちも参加していました。現地で調査団は、破壊された家屋の他に、井戸水が放射能で汚染されていることに気付き、三葉虫を発見します。そこへ、村を襲った巨大生物が姿を現し、海へと去っていきました。国会に戻った山根は、大戸島の伝承に基づいて巨大生物を「ゴジラ」と呼称し、調査結果からゴジラの正体はジュラ紀の恐竜の生き残りが水爆実験によって怪獣化したことを発表します。
やがて東京に上陸したゴジラを政府は防衛隊で迎撃しますが、全く歯が立ちません。怪力と熱線で東京を火の海にしたゴジラは再び海に戻ります。山根の教え子であった芹沢博士から研究の秘密を打ち明けられていた恵美子は、尾形と共に芹沢を説得します。水中の酸素破壊剤オキシジェン・デストロイヤーを使用することで新たな軍拡競争を招くことを危惧する芹沢でしたが、二人の説得と平和を祈る少女たちの姿に心を動かされ、自分の研究結果を全て破棄します。海中でゴジラに接近した芹沢は、オキシジェン・デストロイヤーでゴジラを葬った後、自らの命も絶つのでした。
予告篇
個人的鑑賞記
はじめに
改めて記しますが、拙記事で主に言及するのは、1954年(昭和29年) 11月3日に公開された水爆大怪獣映画『ゴジラ』です。
1984年の『ゴジラ』でも、1998年の巨大イグアナ映画でも、2014年の『GODZILLA ゴジラ』でも、数多く作られた続編ではなく、シリーズの第1作目であり日本の怪獣映画の元祖『ゴジラ』です。
本多猪四郎の盟友だった黒澤明が自ら選んだ100本の映画の1本にも選ばれ、米国のクライテリオン・コレクションからもソフト化された世界に誇る日本映画の名作『ゴジラ』です。
『ゴジラ』の製作過程や特撮については既に多くの書籍や記事がありますので、拙記事では詳述しません。昨年は、ホビージャパンから『1954「ゴジラ」研究極本』という文字通り究極の資料本が出版されましたので、興味のある方はそちらをご参照ください。
私は、1954年の『ゴジラ』をこれまでに映画館、VHSやLD、DVD、Blu-rayで約70回観てきましたが、今でも鑑賞前には胸が高鳴ります。好きな映画は数多いですが、その中でも『ゴジラ』は特に思い入れの強い一本です。
VHSビデオテープ(東宝)
私が初めて『ゴジラ』を鑑賞したのは、1987年にレンタルしたVHSビデオテープでした。
物心がついた頃、既に私はウルトラマンや仮面ライダーに夢中でした。リアルタイム世代ではないですが、再放送が盛んにあったので幼い頃から特撮番組には馴染んでいました。
ですが、当時はゴジラ映画も中断していた時期で、レンタルビデオ店も少ない地域に住んでいましたので、ゴジラやミニラ等の名前は知っていても作品を目にすることはありませんでした。
幼かった頃に見たゴジラ映画の記憶は、一家団欒で見ていたテレビのチャンネルを回していると、偶然ゴジラの飛び蹴りが映って家族で失笑したことくらいです。その映画が『ゴジラ対メガロ』(1973) だと知ったのはかなり後のことです。
程なくして、子供だった私の興味はガンダムなどのロボットアニメとそのプラモデルに移っていきました。更に数年後、ロボットアニメも供給過剰で飽和状態になってきた1984年に高松東宝で復活版『ゴジラ』を見ました。
その頃、特撮やアニメ関連の様々な雑誌で復活版『ゴジラ』の不甲斐無さと比較するように、第一作『ゴジラ』が伝説的な存在として書かれているのを目にするようになりました。1986年に書店で購入した『大特撮』や『円谷英二の映像世界』を読んで、ますます初代ゴジラを見てみたいと思いました。
その頃には、香川県にもレンタルビデオ店が次々と開店しましたが、肝心の第一作『ゴジラ』のビデオは中々見つかりませんでした。
県内のレンタルビデオ店を巡っていた1987年のある日、高松市内の某ビデオ店で遂に第一作『ゴジラ』のレンタルビデオを見つけたときは狂喜しました。
ジャケットの写真が何故か1970年代のゴジラで、本編が約7分もカットされた短縮版でしたが、それでも満足でした。
1988年9月には東宝から「完全修復版」のビデオも発売されましたので、私もようやく『ゴジラ』全編を鑑賞することができました。ただ、初版が明る過ぎて白飛びした映像だったのに対して、こちらは逆に暗すぎて細部が黒く潰れてしまっていたのが難点でした。
1990年代前半、私は所用で滞米していました。
1991年12月には、それまでのゴジラ映画のVHSソフトが廉価版で一挙に発売されました。日本に一時帰国していたときに店頭で見かけたので、米国の知人に見せたいと思いましたが、パッケージの裏面に「日本国外への持ち出しは許可していません」という内容の注意書きが小さく表示されていました。理由は知りませんが、何か契約上の問題でもあったのでしょうか。
それにしても、1980年代前半に発売された『ゴジラ』のビデオソフトが短縮版な上に価格も2万円以上もしていたことを考えると、全長版が税抜価格5500円で購入できるようになったのは夢のようでした。
『怪獣王ゴジラ』VHS (Vestron Video)
滞米していた頃、当地のレンタルビデオ店で『怪獣王ゴジラ』のビデオを発見しましたので、早速レンタルしました。
渡米前にゴジラ関連の書籍を読んでいましたので、『ゴジラ』を北米公開用に再編集したのが『怪獣王ゴジラ』だという前情報はありました。ですが、実際に視聴してみると、想像以上に違和感の固まりでした。
『怪獣王ゴジラ』も含めて、私が見聞きした当時のアメリカ人のゴジラに対する反応などについては後述します。
レーザーディスク(東宝)
先述したように、東宝版ビデオは国外への持ち出しは許可されていませんでした。滞米中は第一作『ゴジラ』を視聴する術は無いのかと暗澹たる気持ちになりかけていたある日、たまたま入ったCDショップのレーザーディスクのコーナに東宝盤『ゴジラ』のLD(1991年のニューマスター再発盤)が普通に販売されていて驚きました。
早速購入して鑑賞しました。画質はVHSより遥かに鮮明でした。映像特典には『ゴジラ』と『怪獣王ゴジラ』両方の予告編が収録されていました。『ゴジラ』の予告編にも時代を感じましたが、『怪獣王ゴジラ』の想像以上にテンションが高く大袈裟な予告編には爆笑してしまいました。
DVD(東宝)
21世紀を迎え、映像ソフトの主流はVHSビデオテープからDVDへと急速に変わっていきました。2001年には、東宝からゴジラ映画のDVDも続々と発売されました。
翌2002年には私もVHS兼用のDVDプレイヤーを購入しましたので、早速『ゴジラ』のDVDもレンタルしました。
宝田明によるオーディオコメンタリーの他に、映像特典も次の三つが収録されていました。
・伊福部昭インタビュー(2000年11月13日収録)
・東宝俳優名鑑 (静止画)
伊福部昭のインタビューは50分にも及ぶ長尺です。映画音楽を手掛けるようになった経緯や『ゴジラ』の音楽に関する裏話など、既に様々な資料で語られてきた内容ですが、作曲者本人が語る貴重な映像です。
旧Blu-ray(東宝)
更に時代は移り、2009年には東宝から『ゴジラ』のBlu-rayが発売されました。
私がBlu-rayレコーダーを購入したのは結婚した年の2011年でした。DVDと違い、何故か黒澤映画やゴジラ映画のBlu-rayはレンタルされていませんでしたので、後述するクライテリオン・コレクション盤と同時に(比較する意味もあって)東宝盤『ゴジラ』のBlu-rayをネットで購入しました。
黒澤映画の東宝盤旧Blu-rayは映像特典が予告編のみというDVDより貧相な内容でしたが、ゴジラ映画のBlu-rayはそこそこ充実した内容でした。
・復刻 ゴジラのテーマ(HD画質)★初収録
・オキシジェン・デストロイヤー(HD画質)★初収録
・伊福部昭インタビュー(SD画質)
・ピクチャー・イン・ピクチャーで観る繪コンテ ★初収録
・スナップで観る撮影現場の風景(静止画・HD画質)★初収録
「復刻 ゴジラのテーマ」は、2008年3月16日に杉並公会堂にて開催された第2回伊福部昭音楽祭で、堀俊輔指揮、伊福部昭記念オーケストラによって演奏された『ゴジラ』のテーマ曲オリジナル版です。又、現存する撮影用のオキシジェン・デストロイヤーの映像も細部まで見れて非常に興味深いです。
Blu-ray(クライテリオン・コレクション)
2012年、『ゴジラ』のクライテリオン・コレクション盤Blu-rayを購入しました。
紙ケース入りのデジパックは、開くと飛び出す絵本のようにゴジラが立体的に出てくる仕様ですが、初代ゴジラではなく『ゴジラ×メカゴジラ』(2002) のゴジラというのが不可解です。
画質の方ですが、東宝盤のBlu-rayが少し滑らかな感じの映像だとしたら、クライテリオン盤の本編映像はフィルムの細かい傷までクッキリと見えるシャープな印象です。(逆に言えば、フィルムの傷までは修復されていないことも鮮明になっているのですが…)同じクライテリオンの『七人の侍』(1954) の高画質には及びませんが、古い時代のフィルムということを考慮すると、発売当時としては鮮明な映像だと思います。
又、クライテリオン盤Blu-rayは、東宝盤の特典に加えて独自の特典映像が収録されているのも特徴です。
・『怪獣王ゴジラ』HD画質
・映画史家デビッド・カラット (David Kalat) によるオーディオコメンタリー
・撮り下ろしインタビュー(宝田明、中島春雄、入江義夫、開米栄三)
・伊福部昭インタビュー(東宝盤と同一)
・「幻のゴジラ未使用フィルム~ゴジラ合成画面を検証する」(『GODZILLAFINAL BOX』特典ディスクより)
・映画評論家 佐藤忠雄への撮り下ろしインタビュー
・「最も不運な竜 (The Unluckiest Dragon)」歴史研究家グレゴリー・フルークフェルダー (Greg Pflugfelder) が解説する第五福竜丸のドキュメンタリーについてのオーディオエッセイ
・『ゴジラ』と『怪獣王ゴジラ』の予告篇
・新訳英語字幕
・批評家 J・ホバーマン (J. Hoberman) による書き下ろしエッセイ
オーディオコメンタリーは、映画史家デビッド・カラットによる解説です。
カラットは、ゴジラ・シリーズに関する書籍も執筆したこともあるほど特撮映画に思い入れのある人ですので、軽妙な口調で熱く語っています。『ゴジラ』の制作秘話やスタッフ・キャストに関する話は勿論、広島・長崎への原爆投下や、第二次世界大戦から冷戦に至る当時の緊迫した世界情勢などにも話は及んでいます。
カラットは、新吉の兄・政治が嵐の大戸島でのゴジラ襲撃で落命する下りは、ゴジラに遭遇した者は再び襲われるということから、第五福竜丸の船員が水爆実験を目撃した後も放射能によって命を奪われることの比喩であると語っています。
又、電車の中で長崎原爆から逃れた女性や疎開を考える男性が、後にゴジラに遭遇するように、ゴジラの被害者は名も無きエキストラではなく、一人一人が戦争で傷ついた過去を持っていることも指摘しています。
尚、カラットは『影武者』(1980) から『まあだだよ』(1993) に至る晩年の黒澤映画に本多猪四郎が補佐役として参加していたことにも言及していますが、それらの映画の脚本を黒澤と共同執筆していたというのは誤りです。
ところで、カラットが日本語名の “ei” の部分を「アイ」と発音するのが耳に付きました。『和製キング・コング』を「ワサイ・キングコング」、『栄光の影に』を「アイコウノカギニ」、そして円谷英二 Eiji Tsuburaya を「アイジ・ツブラヤ」といった感じです。これは、Eisenhower を「アイゼンハワー」と発音するような感じでしょうか。
映像特典の中で特に興味深いのは、”The Unluckiest Dragon” (最も不運な竜) です。
コロンビア大学の歴史研究家グレゴリー・フルークフェルダー (Gregory Pflugfelder ※プラグフェルダー、プルグフェルダーの表記もあり) が解説する第五福竜丸についてのオーディオエッセイです。
1954年3月1日、ビキニ環礁での米軍による水爆実験「キャッスル作戦・ブラボー」が行われました。当時、マーシャル諸島近海で操業していた第五福竜丸は、米国が定めた危険水域の外にいました。ところが、実際の水爆は予想を大幅に超える威力でしたので、第五福竜丸を含む数百隻やロンゲラップ島の住民64人全員が被曝しました。
この核実験後、第五福竜丸の乗組員は被曝による症状に苦しめられました。そして、約半年後の9月23日、無線長の久保山愛吉が落命しました。
アメリカの画家ベン・シャーンは、久保山の火傷を負った顔をはじめ、第五福竜丸を題材にした作品を数多く描きました。
フルークフェルダーは、第五福竜丸を題材にした映画にも言及しています。 第五福竜丸をモデルにした船が出てくる本多猪四郎の『美女と液体人間』(1958) や、広島出身の新藤兼人の映画『第五福竜丸』(1959) の他に、アメリカでも『放射能X』(1954) や『縮みゆく人間』(1957) のような映画が撮られたことも紹介されています。
第五福竜丸の被曝事件をきっかけに多くの日本人による大規模な原水爆反対運動が展開しました。そして、この事件は『ゴジラ』制作のきっかけの一つともなりました。
特典には、映画評論家・佐藤忠男への撮り下ろしインタビューもあります。
佐藤が語った主な内容は、インドネシアとの合作計画の中断とビキニ環礁での水爆実験が『ゴジラ』制作のきっかけとなったこと、占領下の日本ではGHQによって表現の自由は保障されていたが原爆の被害描写を含む米軍への批判的内容は厳しく検閲されていたこと、日本が独立した直後に進藤兼人の『原爆の子』(1952) や、関川秀雄の『ひろしま』(1953) が公開されたこと、などです。
又、佐藤は、ゴジラの中に人が入って演じることの源流が歌舞伎であることにも言及しています。ゴジラの歩き方が力士のように「のっし、のっし」としていたから非常に力強く見えていたのに対して、1998年の巨大イグアナが素早く動いていたことには「ゴジラってのはスピーディに動けばいいってもんじゃないな」と語り、圧倒的な力強さが欠けていたと指摘していました。
2011年に収録されたこのインタビューの最後で、佐藤は東京電力福島第一原子力発電所の事故が大きな被害を出したことが『ゴジラ』に似ているとも語っています。
クライテリオンからソフト化されたことで、遂に『ゴジラ』も古今東西の名作映画の一本として国際的に認知されたようで嬉しく思いました。
同時に、3.11以降この映画が持つ反核メッセージが重みを増してきたことも実感しました。
60周年記念デジタルリマスター版
2014年6月21日と7月1日、地元の映画館で『ゴジラ』60周年記念デジタルリマスター版を鑑賞しました。
旧作のリバイバルということで、入場料は1000円とお得な値段。
上映前には、同年公開のレジェンダリー版『ゴジラ GODZILLA』の予告編も上映されました。しかも、同映画の一部映像まで上映されていました。新作映画の予告編を見ると、第一作目の『ゴジラ』から特撮の進歩は勿論、映画の表現が大きく変化したのを感じました。
デジタルリマスターを施された『ゴジラ』本編の画質と音質は申し分なかったです。若干、黒が強い気がしましたが許容範囲内でした。(ただ、デジタル上映なので、フィルムの映像も見てみないと本来の暗部のディテールは見えないのかもしれませんが…)
フリゲート艦隊が海中のゴジラを爆撃する映像のフィルムの雨のような多数の傷も東宝版Blu-rayに比べるとかなり修復された印象です。
東京の夜空を炎の海で照らしながら前進する漆黒の巨大なゴジラも、劇場のスクリーンで見てこその存在感でした。
ところで、このときの鑑賞で初めて気付きましたが、大戸島の島民が海岸で不安そうに海を見ている場面で、村長の後ろに立つ3人の年配女性が上半身に何も着ていませんでした。ゴジラ・シリーズ全作中で唯一『メカゴジラの逆襲』(1975) に女性のセミヌードが映っていると思っていましたが、意外にも同じ本多猪四郎が撮った第一作で既に映っていました。
『ゴジラ』を見る度に感じるのは、怪獣映画というより文芸映画を見ているような錯覚を覚えてしまうことです。成瀬巳喜男の映画のスタッフによる端正な画造り、上品な喋り方をする登場人物、そして現代の映画よりも淡々とした展開だからだと思います。勿論、本多猪四郎の真面目な人柄も影響しているかもしれません。
1987年にVHSで初めて見て以来、LD、DVD、Blu-rayで何十回も見てきましたが、劇場で鑑賞するという長年の悲願が遂に叶いましたので感無量でした。
4KリマスターBlu-ray(東宝)
2023年10月、『ゴジラ』と『モスラ対ゴジラ』(1964) の4KリマスターBlu-rayを購入しました。
私の自宅は4K Ultra HDを再生できる環境ではないので、4Kデジタルリマスターを2KダウンコンバートしたBlu-rayを視聴しましたが、我が家のテレビで見る分には十分鮮明な映像でした。黒澤映画の4Kデジタルリマスターで見事な修復を施してくれた東京現像所は、ゴジラ映画でもその見事な修復技術を発揮しています。東宝の旧Blu-rayは勿論、クライテリオン・コレクションのBlu-rayをも凌ぐ高画質です。
音声は、日本語モノラル(オリジナル)リニア PCM と、宝田明によるオーディオコメンタリー(旧DVD、旧Blu-rayと同一内容)で、日本語バリアフリー字幕付きです。
映像特典も、黒澤映画のBlu-rayより充実した内容です。
予告篇
海外輸出用 予告篇
予告篇(ノンスーパー)
米国公開版「Godzilla, King of the Monsters!」予告篇
逆輸入凱旋公開「シネスコ版 怪獣王ゴジラ」予告篇
・「シネスコ版 怪獣王ゴジラ 海外版」(HD画質) ★初収録
・わが映画人生 本多猪四郎 監督 ★初収録
・伊福部昭インタビュー
・オキシジェン・デストロイヤー
・復刻 ゴジラのテーマ
・8mm映画「ゴジラ」 ★初収録
・幻のゴジラ未使用フィルム~ゴジラ合成画面を検証する(『GODZILLAFINAL BOX』特典ディスクよりHDにアップコン)★初収録
初収録となるスチールギャラリーも盛り沢山です。
スチール・スナップ | |
特撮スチール・スナップ | |
宣材 | 半裁ポスター 2シートポスター スピードポスター 立看板ポスター タイアップ半裁ポスター 車内吊りポスター カラープレス 東宝スタジオ・メール 号外、 同 NO.244、同 NO.250、同 NO.262 東宝写真ニュース チラシ ゴジラバルーン 映画ポスターの下に貼られたプレゼント告知 プレゼントの絵本と当選通知 飛び出す絵本 二つ折り 封筒 貸出スチールの封筒 貸出スチール 箱マッチ サンデー藝能 S29/7/25号 東宝発行の芸能紙、 同 8/25号、同 9/10号、同 9/25号、同 10/10号、同 10/25号 東宝 1954 NO.30、同 NO.31、同 NO.32 |
パンフレット 他 | パンフレット 毎朝新聞号外 阿桜館 チラシ 田無映画劇場 二つ折りチラシ みその映画劇場 チラシ 日劇 秋のおどり パンフレット 北野劇場 KITANO NEWS NO.21 札幌東宝 手描きの看板 G作品検討用台本 表紙 G作品台本 表紙 ゴジラ台本 表紙 G作品場面割台本 表紙 修祓式で読み上げられた祝詞にキャスト・スタッフがサインを入れたもの 香山滋からの書簡 原作が完成した日についての質問の回答 怪獣ゴジラ 表紙 ニッポン放送のラジオドラマをアレンジしたもの タイアップチラシ ゴジラ東京大阪編 表紙『ゴジラ』『ゴジラの逆襲』の台本を基に構成したもの おもしろブック ふろく 表紙 本誌のダイジェスト版がプレゼントに使われた ぼくら ふろく 表紙 少年クラブ ふろく 表紙 怪獣ゴジラ(黎明社) 表紙 大怪獣長編漫画ゴジラ(あかしや書房) 表紙 上映用プリントを納めたフィルム缶 |
広告 | 新聞広告 雑誌広告 |
怪獣王ゴジラ・海外版 | 半裁ポスター 立看板ポスター カラープレス 新聞広告 海外向けチラシ 二つ折り 海外向けパンフレット ポスター パンフレット 二つ折り ロビーカード |
伊福部昭の音楽
『ゴジラ』と言えば、作曲家の伊福部昭についても語らない訳にはいきません。
田中友幸、香山滋、本多猪四郎、円谷英二と並んで、伊福部もゴジラの生みの親の一人です。第一作から『ゴジラVSデストロイア』(1995) までの41年間、ゴジラの誕生から(一時的な)最期まで22作品中12作のゴジラ映画に関わりました。
伊福部昭は、1914年、北海道釧路町幣舞(現・釧路市)に生まれました。独学で作曲を学びながら、19歳で《ピアノ組曲》を完成させ、21歳で作曲した《日本狂詩曲》がパリのチェレプニン賞の第一席入賞するなど、国内外で目覚ましい成果を上げました。1936年、来日した作曲家アレクサンドル・チェレプニンから作曲法と管絃楽法を学んだ後、林務官や戦時科学研究員を勤める傍ら、《土俗的三連画》や《交響譚詩》等の名曲を次々と作曲しました。
戦時中の科学実験で体調を崩した伊福部昭は、敗戦後に上京。1946年、東京音楽学校 (現・東京藝術大学音楽学部) の作曲科講師に就任。芥川也寸志や松村禎三など後の名作曲家を数多く輩出しました。又、1947年の映画『銀嶺の果て』を皮切りに映画音楽の仕事も開始しました。1953年、名著『管絃楽法』初版 (音楽之友社) 出版。代表作《シンフォニア・タプカーラ》を完成させた1954年に、第一作の『ゴジラ』の音楽を依頼されました。
当時は映画音楽が純音楽より格下に見られていた時代でした。その上、怪物やお化けの映画に出演することはその俳優のキャリアを傷つけると言われていましたので、伊福部の周囲の人は『ゴジラ』のような映画に関わることを避けるように忠告したそうです。ですが、ゴジラにアンチ・テクノロジーのようなものを感じた伊福部は真摯に『ゴジラ』の音楽に取り組みました。
ところで、「ドシラ、ドシラ」という有名な『ゴジラ』のテーマ曲は、本来はゴジラに立ち向かう人類側のテーマ曲でした。ゴジラが猛威を振るう場面の曲は低音が響き渡る重厚な曲で、自衛隊や消防車が活躍する場面で「ドシラ」が流れていました。
7年後の『キングコング対ゴジラ』(1962) でゴジラが復活してから『怪獣総進撃』(1968) に至るまで、伊福部によるゴジラのテーマ曲は「ゴジラの猛威」のバリエーションでした。
変化が生じたのは、伊福部が7年ぶりにゴジラ映画を作曲した『メカゴジラの逆襲』です。この時期のゴジラは、宇宙からの侵略者と戦う正義の怪獣となっていましたので、第一作の「ドシラ」のテーマ曲をゴジラのテーマ曲として復活させるように東宝から要望されたそうです。
その後、1983年には伊福部が自ら東宝特撮映画の音楽を演奏会用に再構成した《SF交響ファンタジー》全3曲を作曲して、1986年にはビデオ「東宝特撮未使用フィルム大全集」のBGM用に特撮映画音楽を新たに演奏・録音したレコード「OSTINATO オスティナート」も発売され、1989年の『ゴジラVSビオランテ』では「OSTINATO」の「ドシラ」の曲がゴジラのテーマとして流用されました。
こうした流れの中、東宝から度々説得された伊福部も16年ぶりにゴジラ映画に復帰しました。『ゴジラVSキングギドラ』(1991) と『ゴジラVSモスラ』(1992) では「ドシラ」の曲をゴジラのテーマ曲として書いた伊福部でしたが、この曲がテレビでも乱用されていくことでゴジラから遊離することを案じていました。そのため『ゴジラVSメカゴジラ』(1993) では、本来のテーマ曲であった「ゴジラの猛威」を復活させて、よりゴジラの動きに合わせていました。しかも、最後にゴジラがメカゴジラに勝利する場面では「ドシラ」の曲も流す大サービスでした。そして、伊福部の映画音楽の遺作ともなった『ゴジラVSデストロイア』のエンディングでは「ドシラ」の曲が再び流されて、シリーズは休止します。
シリーズ再開後も、「ドシラ」の曲は『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001)、『ゴジラ ファイナルウォーズ』(2004)、『シン・ゴジラ』(2016)、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019) でもゴジラのテーマ曲として流れました。
ですが、この曲に再び変化が生じたのは『ゴジラ-1.0』(2023) です。ゴジラが銀座を蹂躙する場面では『モスラ対ゴジラ』のゴジラの猛威が流され、クライマックスの海神作戦で流れる「ドシラ」の曲はゴジラに立ち向かう人類側のテーマ曲として高鳴ります。伊福部音楽を選曲した佐藤直紀は、東京音楽大学で伊福部に師事したこともあるそうです。第一作の公開から69年後に「ドシラ」の曲は、作曲者の門下生によって先祖返りを果たしたことになります。
(ついでに余談ですが、『シン・ゴジラ』で第四形態のゴジラが鎌倉に上陸した際に『メカゴジラの逆襲』の正義ゴジラのテーマ曲が流れたのは意外に思いました。ただ、エンディングでメドレー風に流れた伊福部音楽は『三大怪獣・地球最大の決戦』(1964) を除けば、第一作の『ゴジラ』、『怪獣大戦争』(1965)、『ゴジラVSメカゴジラ』という怪獣に立ち向かう人類側のテーマ曲で統一されていましたので、同一作品内で「ドシラ」の曲がゴジラと人類側の両方のテーマ曲として流れたとも言える気がします)
話を第一作『ゴジラ』に戻します。
後に『怪獣大戦争』マーチとなったフリゲートマーチのように勇ましい曲もありますが、全体的に『ゴジラ』の音楽は後年の特撮映画より控え目な感じで、悲しみに満ちた印象があります。
『ゴジラ』が第五福竜丸の被曝をモデルとしたように、伊福部自身も第二次世界大戦中の放射線を使った科学実験で被曝して、その実験で実兄を亡くしています。辛くも生き延びた伊福部が、戦後は原爆を題材にした映画『原爆の子』や『ひろしま』に続いて『ゴジラ』の音楽も手がけたことに運命的なものを感じます。
『ゴジラ』の劇中曲の中でも「帝都の惨状」「平和への祈り」「海底下のゴジラ」は、胸が締め付けられる名曲です。
「平和への祈り」を歌ったのは、70年前の桐朋学園(現 桐朋女子中学校・高等学校)の生徒たちです。撮影された場所は、当時「大講堂」と呼ばれていた仙川の旧講堂でした。
演奏や録音については、作曲した伊福部本人が書籍やDVDなどのインタビューで語っています。又、昨年ホビージャパンから出版された『1954「ゴジラ」研究極本』にも、桐朋学園の卒業生2人が当時の思い出を語っています。
その後、驚くべきことに、ロケ地となった桐朋女子中学校・高等学校の教職員が、校内に保存されている教務日誌や当時の学校新聞、アルバム等を調査して、より正確な情報を学校の公式サイトに掲載していました。詳細は下記のリンク先をご参照ください。
「ゴジラ 第一作(1954(昭和29)年)と桐朋女子 ―「平和への祈り」をめぐって―」(桐朋女子中学校・高等学校)
「(1)」2023年12月28日
「(2)」2024年1月6日
「補遺(1)」2024年3月12日
「補遺(2)」2024年3月15日
更に、今年の『モノ・マガジン5-16号』では、桐朋女子中・高等学校へ取材した記事も掲載されました。飯島望教諭へのインタビューの他に、今はなき講堂、学校新聞、「平和への祈り」の直筆楽譜などの写真も貴重です。『ゴジラ』の音楽に興味のある人なら必読の記事です。
ところで、周囲の忠告に逆らってまで真摯に『ゴジラ』の仕事に打ち込んだ伊福部でしたが、ゴジラに対する感情は複雑なものがあったようです。
円谷英二が怪獣映画ばかり自分と重ねられることに不満を語っていたように、伊福部も本業である純音楽作品ではなくゴジラのことばかり言われることに辟易していた時期がありました。
ですが、1980年代以降は楽壇でも再評価が高まり、伊福部の純音楽作品の演奏も急速に増えていきました。そして、ゴジラ復活の熱気に押されて《SF交響ファンタジー》全3曲を書き、1990年代にゴジラ映画音楽に復帰した後も、次のように語っていました。
伊福部昭「当然なのですが、『ゴジラ』の仕事は特に意識してあたったわけではありません。来た仕事の一本という感覚でした。まさか、ここまで私の音楽家生活についてまわるものになるとは少しも思わなかった。ですから、そういう意味では「ゴジラ」には運命のようなものもときには感じるんです。東宝のそういった一連の映画にも。ゴジラだ、怪物だ、と人からいつも似たような質問をされるのは正直つらいんですが、自分がしてきた仕事ですから。「ゴジラ」が自分の音楽家人生とは切り離せないものだということは、私自身も多少は感じています」 ― 『伊福部昭語る 伊福部昭映画音楽回顧録』(ワイズ出版)
こう語る伊福部の本心は第三者には中々計り知れないものだと思います。多少の気恥ずかしさを見せながらも仕事としては誰よりも真摯にゴジラと向かい合ってきた伊福部でしたが、最も好きな自作の映画音楽は『わんぱく王子の大蛇退治』(1963) であり、そして映画音楽よりも純音楽こそが伊福部にとって本命だったのは間違いありません。
そうしたことを踏まえながらも、伊福部昭が創造したゴジラの音楽や咆哮が今もなお世界中の観客を魅了して止まないのもまた事実です。
クラシック音楽を盲目的に信仰する人の中には映画音楽を蔑視する人が今も少なくありませんが、そもそも映画『ギーズ公の暗殺』のために世界初の映画音楽を作曲したのは『動物の謝肉祭』などで知られる大作曲家カミーユ・サン=サーンスでした。
その他にも、ジャック・イベール、セルゲイ・プロコフィエフ、アルテュール・オネゲル、ドミートリイ・ショスタコービチ等々、20世紀に活躍したクラシック音楽の大作曲家たちの多くが映画音楽を作曲しました。ニーノ・ロータも、クラシック音楽が本業と言いながら『ゴッドファーザー』(1972) 等の映画音楽の方が世界的に有名になりました。「本業は映画音楽よりもクラシックだった──ニーノ・ロータのオペラは映画よりおもしろい」(GQ Japan 2022年12月23日)
伊福部昭のゴジラ音楽も映画音楽とクラシックの垣根を超えた名曲として聴かれ続けていくことでしょう。
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『ゴジラ』に関する誤解
ネットを見ていると、たまに『ゴジラ』に関する誤った情報を見かけることがあります。ここでは、その主なものを紹介いたします。
撮影時期
X(旧Twitter)で某アカウントが、『ゴジラ』の撮影は『七人の侍』と同時期だったのでエキストラの取り合いになり円谷英二と黒澤明が揉めた、と書いていましたが、これは間違いです。
『七人の侍』は1954年3月18日に撮影を終了して同年4月26日に公開されました。一方、『ゴジラ』本編のクランクインは同年8月7日でした。
もう言うまでもありません。両作品の撮影時期は約5ヶ月も離れていたのですから、エキストラの奪い合い云々など全くのデマです。
ゴジラのテーマの由来
「ドシラ、ドシラ」というゴジラのテーマ曲は、モーリス・ラヴェルの《ピアノ協奏曲 ト長調》(1931) の一部に酷似しているとよく言われます。伊福部門下生の黛敏郎でさえ、師匠への賛として作曲した《Hommage a A.I.》(1988) の末尾にラヴェルの曲を「イタズラ」として引用していたほどです。
その上、伊福部昭は似た旋律を頻繁に再利用しますので、その「元ネタ」も熱心な伊福部ファンの研究対象にもなっています。
映画音楽では、某動画サイトにも投稿された『社長と女店員』(1948) のタイトル曲が有名です。
純音楽では、長い間《ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲》(1971) の初版が「元ネタ」と思われていました。ですが、伊福部に長年師事していた声楽家・藍川由美の調査によって、一番最初の《ヴァイオリンと管絃楽のための協奏曲》(1948) に例の「ドシラ」が入っていないことが判明したそうです。「ドシラ」が入ったのは、1959年の改訂第2版からのようです。
しかも、1945年の作品《管絃楽のための音詩「寒帯林」》が2010年に蘇演された際、「ドシラ」が入っていたことが判明しました。
更に、伊福部の最初期の作品《平安朝の秋に寄する三つの詩》からも「ドシラ」が発見されました。この歌曲が作曲されたのが1932年ですので、1931年に完成したラヴェルの《ピアノ協奏曲》を当時札幌の北海道帝国大学(現 北海道大学)に入学して間もない伊福部が耳にしたのか疑問になってきます。
尚、上記の経緯は、カメラータ・トウキョウのCD「古代からの声 伊福部昭の歌曲作品/藍川由美」の藍川自身による解説書を参考にしました。
『怪獣王ゴジラ』と北米でのゴジラの評判
『怪獣王ゴジラ』の時代背景
ゴジラ生誕70周年の今年は、日米で撮られた2本のゴジラ映画が世界を席巻しました。
昨年ロングランヒットした『ゴジラ-1.0』は、北米でも邦画実写映画の興行収入歴代1位という大入りで、批評家からも賞賛され、遂にはアカデミー賞の視覚効果賞まで受賞しました。そして、今年公開された『ゴジラxコング 新たなる帝国』も各国で大ヒットしました。
このように今年は世界中で大フィーバーのゴジラですが、ここに至るまでゴジラに対する評価には紆余曲折ありました。
70年前にゴジラが銀幕デビューしたときも国内では空前の大ヒットとなりましたが、映画評論家からは「ゲテモノ」的な評価だったことはよく知られています。今でこそ日本映画の古典となっている『ゴジラ』ですが、怪獣映画や特撮映画が映画史の中で(特撮ファン以外の批評家から)正当に評価されるのには半世紀近い年月がかかったように見えます。
こうした事情は北米でも似ていましたし、日本とは異なる事情もありました。
『ゴジラ』は、海外上映の権利を買い取ったアメリカの映画会社によって再編集され、1956年に『怪獣王ゴジラ』として全米で公開されました。
クライテリオン盤『ゴジラ』Blu-rayの映像特典『怪獣王ゴジラ』でも、オーディオコメンタリーのデビッド・カラットが、主に1950年代のアメリカでの外国語映画の市場状況を背景に『ゴジラ』がどのように改変されたかが語っています。
現在の北米では外国語映画の大半は英語字幕付きで公開されますが、カラットによると1950年代は(より費用のかかる)英語吹き替えが特別な外国語映画に対する扱いだったそうです。
基本的に(都会の一部のインテリ層を除く)アメリカ人は英語字幕を読むのが嫌いなので、外国語映画を見ようとしません。1950年代の米国では『羅生門』や『地獄門』などがアカデミー賞を受賞するなど大変な評判でしたが、上映されていたのは限られたアートシアターでした。ですから、アメリカ人向けに改編されたことによってゴジラ映画が全米の一般の劇場で上映されて、日本映画としては初めて100万ドルを超える大ヒットを記録したのは自然かもしれません。
カラットも、そうした興行的成功や後のテレビ放送によって多くのアメリカ人にゴジラを浸透させた功績から『怪獣王ゴジラ』を擁護していました。
ですが、そうしたことを考慮しても、私は『怪獣王ゴジラ』は好きになれません。
日本人から見ればその「再編集」は違和感の塊でしかありません。英語の吹き替えはまだしも、アメリカ人記者が日本を取材中にゴジラに遭遇するという話にするために追加撮影された場面に出てくる日本人の描写は相変わらずステレオタイプに満ちた頓珍漢なものです。そして、電車内で疎開を話す乗客の場面や、山根博士の最後の台詞など、核の脅威を伝える要素が悉く割愛されているのも不快です。
しかも、東宝と正式に契約した上での改変とは言え、このことは監督の本多猪四郎には一切知らされていませんでした。後に『七人の侍』がアメリカで『荒野の七人』(1960) としてリメイクされたときも、東宝はオリジナルの脚本家である黒澤明、橋本忍、小國英雄から許可を取らなかったため、長年にわたり黒澤と東宝が法的に争うことになりました。
北米での興行収入を上げるため外国語映画を改変(改悪)するハリウッドの姿勢は、約40年後の1990年代後半でも大して変わっていませんでした。
周防正行も『Shall we ダンス?』(1996) が北米で公開された際、配給会社のミラマックスがアメリカ人向けに短縮したことに強い不満を抱いていました。北米向けのポスターも革靴を履いた男性の脚にハイヒールを履いた女性の脚が絡んだ写真で、日本的な要素が全て排除されていました。周防が宣伝担当に「日本映画だと分かったら、お客さんはこないんだ」と聞くと「きません」と即答されたそうです。
アジア人が主演の映画だと集客が望めないという理由で白人俳優レイモンド・バーが「主演」であるように改変したり、日本人俳優が出演することを隠して宣伝するというのは、商売としては上手かもしれませんが、人種差別と表裏一体の所業です。
話を戻しますが、元祖『ゴジラ』が本来の姿で北米で公式に公開されたのは、何と日本公開から50年後の2004年でした。その後、DVDやBlu-rayも発売されて、海外でも容易に『ゴジラ』を視聴できるようになりました。
要するに『怪獣王ゴジラ』はその役目を終えて過去の遺物になったも同然なのです。21世紀を迎えて文化的多様性が当たり前となった今となっては、外国語映画であることやアジア人俳優が出演していることを理由に『ゴジラ』に手を加えることなど言語道断です。
実際に見聞きしたアメリカ人の反応
1980年代から1990年代の間に私が出会った殆ど全てのアメリカ人もゴジラを知っていましたが、ゴジラに対する見方はもっと冷ややかな印象を受けました。
中には『怪獣大戦争』やキングギドラが好きな男性もいましたし、日本のマニア並みに詳しい熱心な特撮ファンもいましたが、それはほんの一部に過ぎません。当時の一般的なアメリカ人のゴジラに対する反応と言えば『ゴジラ対メガロ』のように「ゴム製の怪獣スーツに入った役者がオモチャのようなミニチュアの中で暴れる安っぽい子供騙し」といった軽蔑と嘲笑の混じったものでした。
私が滞米していた1990年代前半の一般的なアメリカ人の知っている最も古いゴジラ映画は第一作を改変した『怪獣王ゴジラ』で、最新作は1984年の『ゴジラ』を改変した『ゴジラ1985』でした。当時、日本で毎年大ヒットしていたVSシリーズは何故か北米では公開されていませんでした。例外的に『ゴジラVSキングギドラ』の戦争描写が問題視され一部のニュースで報じられたり、1992年に『ゴジラVSビオランテ』がVHSビデオテープで北米で発売されたくらいでした。
そもそも一般的なアメリカ人はミニチュアがミニチュアに見えてしまうアナログ特撮を極度に嫌うか馬鹿にしているように見えます。私はアメリカ人の知人と一緒に日本の特撮映画のビデオを見たことが何度かありますが、大戸島を襲撃したゴジラが踏み潰したヘリコプターやガメラが破壊する福岡ドームのミニチュアを彼等も「安っぽい」と嗤っていました。日本の特撮映画だけでなく、フィルムセンターでアルフレッド・ヒッチコックの『岩窟の野獣』(1939) を鑑賞した際も、嵐の中で方向転換する船のミニチュア特撮で若者たちが爆笑していました。
当時は『ターミネーター2』(1991) や『ジュラシック・パーク』(1993) のようにCGが急速に発達していた時期でしたから尚更だったのでしょう。
デビッド・カラットも10数年前に『アルゴ探検隊の大冒険』(1963) を劇場で鑑賞した際、レイ・ハリーハウゼンのストップモーションによる骸骨軍団が登場する場面で子供たちが笑いながら “That’s so fake!” と言っていたとクライテリオンのコメンタリーで語っていました。この場合の “fake” は「インチキ」の他に、スラングとして「ダサい」も意味するそうです。円谷英二のミニチュア特撮に否定的だったハリーハウゼンの職人技でさえ自国の子供から馬鹿にされる時代になっていたことに諸行無常を感じずにはいられません。
話をゴジラに戻します。2004年に第一作『ゴジラ』が北米で初めて一般公開された頃、私は日本にいましたので、ネットで断片的な情報を得るだけでした。それでも、劇場で鑑賞したアメリカ人の知人が何人か電子メールを送ってくれました。観客の中には昔のミニチュア特撮を嗤う若者もいたそうですが、知人たちは初めて見るオリジナル版『ゴジラ』を賞賛していました。ある女性は恵美子役の河内桃子が他にどんな映画に出演していたのか知りたがっていました。
あれから早くも20年。ゴジラ映画が日米で同時期に公開され国内外で大ヒットする時代が来るとは夢にも思いませんでした。
今では日本のゴジラもCGで動くのが当たり前になりました。長年のファンの中には着ぐるみのゴジラを懐かしむ人もいるようですが、私は映画の出来さえ良ければCGでも一向に気にしません。
そもそも、初代ゴジラが着ぐるみ特撮になったのも、初代キングコングのようなストップモーション特撮を実現する費用や時間が無かったための打開策だったのですから、時代と共に最善な撮影技法に移行していくのは当然のことだと思います。
それに、CGだけで撮られたと思われがちな巨大イグアナ映画でさえ、意外とモンスター・スーツやミニチュアが多用されていましたし、ゴジラがフルCGの『シン・ゴジラ』でも、破壊される家屋などにミニチュアが使用されていました。
もはや、ミニチュアやCGの優劣を決め付けること自体が無意味だと思います。着ぐるみからCGに変わろうとも、作り手が優れた映画を撮る目標を持ち続けている限り、ゴジラが世界中のスクリーン上から観客を圧倒していくことでしょう。
『ゴジラ』と核の脅威
現実と空想の核汚染
『ゴジラ』は公開当時のポスターに「水爆大怪獣映画」という角書きが表記されていたように、同年3月のビキニ環礁でのアメリカによる水爆実験に震撼した当時の日本人の不安感を生々しく反映した映画でもあります。
ゴジラに蹂躙された後の土地や井戸水からガイガーカウンターが放射能を検知する場面や、長崎原爆から命拾いした女性や連れの男性が疎開を考える場面などは、3.11以降の日本では再び恐ろしい現実味を帯びて迫ってきます。
核実験の影響で現代に蘇ったゴジラは、水爆実験由来のストロンチウム90を帯びて放射能を撒き散らしていました。
そして、2011年の東京電力福島第一原子力発電所の事故後、世田谷でストロンチウム90が検出されました。事故から13年以上経った今も放射性物質を回収することすら出来ない原発から増え続ける汚染水からもストロンチウム90が残留しています。
同じ放射能による汚染が空想科学ではなく現実となってしまいました。
ゴジラ生誕70周年を迎えたこの日を手放しで喜べないのは、やはり史上最悪の原発事故というゴジラ級の放射能汚染が現実に進行中だからかもしれません。
黒澤明の『夢』(1990) 第6話「赤富士」では、事故を起こした原発が大爆発して富士山を溶かしていきます。その麓で逃げ惑う大群衆を演出したのが、演出補佐の本多猪四郎でした。往年の怪獣映画を思い出させるような迫力ある場面でした。
黒澤の原発批判に対して「映画を撮るのにも原発の電気が必要だ」という声もありました。ですが、日本国内の電力は火力発電が主流で、原発が無くても電気は足りることは原発事故後に国内の原発が全て停止しても電力供給に何の問題も無かったことで実証されています。
温泉が多い日本は地熱が豊富で、海外に輸出するほどの地熱発電の技術も持っています。国内の地熱発電所を強化すれば、自然エネルギーの有効活用で、火力のバックアップとなり、ソーラーパネルのような景観破壊も減らせますし、何より放射性廃棄物という野蛮なゴミも出ません。それなのに今も日本が地熱発電に消極的なのは原子力産業の利権が想像以上に大きいのかもしれません。
原発推進派は「火力に依存すると石油が云々」と言いますが、原発も建設・廃炉・燃料の採掘と精製・核のゴミ処理などで石油を消費しています。その上、それらの過程でCO2も出すので温暖化対策にもなりません。何より増え続ける放射性廃棄物は今も完全な処理方法が見いだせない有り様です。
そして、原発は安くもありません。推進派は「国富の流出」とか「燃料費が高い」などと火力発電を目の敵にしていますが、原発こそ事故の賠償は勿論、核のゴミ処理や廃炉費、巨額の広告費も含めれば、火力よりコストが高すぎて経済的にも割に合いません。
要するに、原発は電力、環境、経済など全ての面で無用の長物なのです。
こうした原発批判を「ゼロリスク信仰」と揶揄する人もいますが、3.11前は「絶対に事故は起こらない」「原発は安い」などと安全神話で地元住民や消費者を騙しておきながら、東電の原発事故後は被害者を中傷したり詭弁を弄して責任逃れをする卑怯な原発容認派に反対派を批判する資格などありません。
東電原発のメルトダウンから13年が過ぎましたが、まだ核燃料は取り出せず、汚染水は増える一方で、数万人もの被害者は故郷を奪われたままです。史上最悪級の原発事故を起こしても被害者への賠償を渋る東電の責任者は誰も逮捕されないというのは不条理としか言いようがないです。
廃炉が決まった福島第一原発の4基を除いても、日本中にまだ50基もの原発が残っています。他の原発の避難計画も杜撰なまま再稼働を強行しようとする動きが絶えません。
その上、原発事故の被害者への賠償も不十分な中、汚染水を海に流出させたり放射性廃棄物を各地へ拡散しようとする愚行まで進められています。
『ゴジラ』の劇中では、放射能に汚染された井戸水を飲まないよう科学者が島民に注意する場面がありました。ですが、現実の原発事故によってストロンチウム90が検出されても政府や科学者は国民を被曝から守ろうとしない有り様です。
現実の核は、ゴジラ以上に恐ろしいです。
富士山の噴火や南海トラフ大地震などの危険性が指摘されているのですから、一刻も早く全ての原発を廃炉にするべきです。
かつて被爆国であった日本が、自国の核発電の放射線で国土を汚染し人々を被曝させているこの惨状を、天国の本多猪四郎と黒澤明はどんな気持ちで見つめているのでしょうか。
芹沢博士の自己犠牲は特攻か?
『ゴジラ』の東京襲撃後の人間ドラマには賛否両論ありますが、私にはこの部分こそがこの映画の白眉に思えます。
公開当時もこの部分が特に酷評されたようです。
週刊朝日11月14日号は「最後の三分の一ぐらいはたいへん感傷的でつまらなくなる。東京の悲惨な状況を描き、わざわいの根源が水爆実験にあるといわんばかり。水爆にカラム、そのからみ方がいや味である。こんな空想映画はいっそのこと無邪気にカラリと仕上げた方がよかろう」
この評者が言うような「無邪気にカラリと仕上げた」のを具現化したのが後年の子供向けゴジラ映画ですが、そうした映画を批評家は散々馬鹿にしていたのですから何をか言わんやです。白黒映画を撮っていたころの黒澤明が批評家から「西洋的」だのと批判されていたのに、カラー映画を撮るようになると今度は「白黒時代のような娯楽作が良かった」と言われたのですから、批評家の大半は単に難癖をつけているだけとしか思えません。
もう一つ気になるのは、芹沢のゴジラ退治を特攻になぞらえている批評があることです。
11月4日付の毎日新聞は「やたらに決死隊みたいでナンセンスである」と書き、サンデー毎日11月14日号も「特攻隊そのもので、困った精神である」と書いています。
果たして芹沢の自己犠牲は特攻なのでしょうか?私はそう思いません。
太平洋戦争末期の特別攻撃隊は、日本軍が兵士に自らの生命を捨てて敵に体当たり攻撃を強いる非人道的なものでした。それに対して、芹沢は尾形と恵美子にオキシジェン・デストロイヤーの使用を説得されたとは言え、海中でゴジラの最期を見届けた後、自らの命綱と酸素ケーブルを切断したのは誰に強制されたものでもない彼自身の意志と行動でした。
日本軍が始めた無謀な戦争は国内外で甚大な被害を出した上、ポツダム宣言を無視し続けたばかりに各地への空襲や原爆投下で数十万人もの自国民の命が奪われました。特攻にしても、もっと早期に降伏していれば多くの若者が無駄死にせずに済んだのです。正に愚行としか言いようのない戦争でした。
余談ですが、ハリウッドのSF映画を妄信して邦画を蔑視する嫌味な人物が私の身近にいました。芹沢博士がオキシジェン・デストロイヤーの書類を焼却した後、海上保安庁の巡視船「しきね」の場面に転換するのを見た彼は「(オキシジェン・デストロイヤー)を巡る国家間のスパイ戦みたいなものがあれば面白かったのに」と軽薄な感想を言っていました。そうした諜報戦を描いたのが『ゴジラVSビオランテ』でしたが、話が散漫になっていただけでした。何でもかんでもハリウッド映画みたいにすればいいという植民地的な発想しかできないその人物を今でも私は軽蔑しています。
芹沢博士はオッペンハイマーか?
今年はクリストファー・ノーランの映画『オッペンハイマー』が日本でも公開されたこともあり、ロバート・オッペンハイマーを芹沢大助博士に重ねて見る人をSNS上で何人も見かけました。
クライテリオン盤『ゴジラ』Blu-rayのオーディオコメンタリーで、デビッド・カラットもオッペンハイマーと芹沢との間に類似点があると語っていました。
マンハッタン計画を主導していたアメリカの理論物理学者オッペンハイマーは、原爆を開発することで更なる戦争を抑止できると考えていました。ところが、第二次世界大戦後に旧ソ連が原爆開発に成功したことで、米国は原爆より強力な水爆を開発しようとします。
オッペンハイマーが水爆開発に反対して公職から追放されたことをカラットは政治的な比喩で「自殺」と呼び、芹沢博士がオキシジェン・デストロイヤーを悪用されないためにゴジラと心中する文字通りの「自殺」と似ていると指摘しています。
カラットの言い分も分からないではないですが、その見方は表層的だと思います。
果たしてオッペンハイマーは芹沢のような「悲劇の科学者」でしょうか?私はそう思いません。
いくら戦争中とは言え、オッペンハイマーは核兵器が通常兵器を遥かに凌ぐ威力であることを十二分に知りながら米政府公認の計画を主導して原子爆弾を完成させたことにより、広島と長崎の数十万人に及ぶ日本人を死傷させる作戦に加担したのは厳然たる事実です。仮に原爆を使用しなかったとしても、戦争末期の日本には米国に立ち向かえる力など残っておらず、放置しておいても自滅するのは明白でしたから、アメリカがよく主張する「多数の米兵の命を救い戦争を終わらした」という原爆正当化など詭弁に過ぎません。
一方、芹沢は一人で極秘裏に開発したオキシジェン・デストロイヤーを恵美子以外には明かさず、ゴジラと心中することで人間を誰一人犠牲にすることなく自らの発明を永遠に葬り去りました。
話が逸れますが、オキシジェン・デストロイヤーを芹沢一人がどうやって開発できたのか、またその資金源なども劇中では明かされないままでした。カラットも、水 (H2O) の酸素を破壊したら水素だけが残るのではないのか、とツッコんでいました。
まぁ、これは70年も前の「空想科学映画」ですから「空想」の割合の方が多いのは仕方ない面もあります。実際には約2億年前であるジュラ紀を「200万年」と誤記してしまったことに関しても様々な解釈があるようですが、身長50mの怪獣が二足歩行で暴れる映画ですので、過度なツッコミは野暮な気がします。
話を戻しますと、生前のオッペンハイマーは妻子がある身でありながら何度も不倫をするような男性でした。一方の芹沢は戦争による負傷で恵美子を諦めながらも、最期まで恵美子一筋でした。
数十万人の非戦闘員の虐殺に加担したオッペンハイマーと、自らの生命を犠牲にしてまで怪獣と破壊兵器を消滅させた芹沢。どちらが科学者として、そして人間として立派であるかは言うまでもありません。
原子力(核兵器)という科学文明の負の遺産から生まれた映画『ゴジラ』。
東京を火の海にして放射能を撒き散らすゴジラは加害者であると同時に、人間の水爆実験によって被曝して故郷を破壊された被害者でもあります。
人間が手にしてはいけない核を悪用したことによって、人間が自らの文明に復讐される負の連鎖。
その問題は『ゴジラ』の公開から70年も経った現在も解決されていません。
科学技術が戦争や原発に悪用される現実を鑑みると、芹沢博士が遺した警告を私達は忘れてはなりません。
ゴジラが海底に消滅した後も、山根博士は沈痛な面持ちで呟きます。「あのゴジラが 最后の一匹だとは思えない……もし……水爆実験が続けて行われるとしたら……あの ゴジラの同類が また世界の何処かへ現れて来るかも知れない」
まぁ『ゴジラ』公開から半年も経たない内に『ゴジラの逆襲』が公開されたので、山根博士の独り言は的中してしまいましたが、それは結果論です。例の嫌味な人物が、この台詞に対して「だから続編が作られたのか」と知ったかぶって放言していましたが、映画のメッセージを読み取っていない愚かな感想だと思いました。
第一作を制作中はこの映画がヒットするかどうかは未知数でしたし、作者が訴えたかったことが核兵器に対するアンチテーゼであることは物語の文脈からも明らかです。
1986年から1987年にかけてのインタビューで、本多猪四郎は山本真吾にこう語っていました。
本多猪四郎「科学というものは、それがなければ生活できないから推し進められるわけですよ。ただ、そのときに、科学というものが最後まで人間のためだけになるようなものかというと、そうではないから気をつけなければならない。特に科学者というものは、原爆など、これを使ったら地球は自分の言いなりになるという人間が生まれてくる危険性を相当ぼくは感じたからね」―『「ゴジラ」とわが映画人生』ワニブックス
科学は、それを扱う人間によって破滅的な結果ももたらしてしまうという倫理的な問いを投げかけた『ゴジラ』は、今だからこそ見直されるべきだと思います。
『ゴジラ』は「反核」か?
樋口尚文の著書『グッドモーニング、ゴジラ 監督 本多猪四郎と撮影所の時代』復刊版(国書刊行会)の「長いあとがき」を読んで思ったことを綴ります。
副題にあるように、この本は本多猪四郎の生涯と映画監督としての仕事を通して、東宝撮影所の歴史を辿る内容です。この本が貴重なのは、普段あまり語られることのない特撮以外の本多の業績にも丁寧に光を当てていることです。
巻末の「長いあとがき」の中で最も気になったのは、「ゴジラと反核のテーマ」の有無です。これは、評論家だけでなく熱心なゴジラ・ファンの間でも議論の的になることが多い話題です。
樋口は『グッドモーニング、ゴジラ』で、第一作『ゴジラ』には、世評で言われる程の「反核」のメッセージは無いと主張しています。そして、「あとがき」にもあるように、当の本多も『ゴジラ』は反戦・反核のテーマではないと語ったそうです。
では、『ゴジラ』が所謂「反核」とは全く無縁かというと、それも正しくないと私は思います。
そもそも公開当時のポスターに「水爆大怪獣映画」と銘打たれた『ゴジラ』には、ビキニ環礁での水爆実験に恐怖した当時の世相が色濃く反映されています。ゴジラ自身が水爆実験によって突然変異したジュラ期の恐竜であり、行く先々の土地や水を水爆の放射能(ストロンチウム90)で汚染していきます。電車の名で、長崎の原爆から命拾いした女性が、連れの男性とゴジラの脅威から「疎開」を話し合います。ゴジラによる襲撃は東京大空襲のような大火災を巻き起こし、焦土と化した東京には溢れる夥しい数の死傷者が溢れています。ゴジラの放射能に被曝した幼い少女にガイガーカウンターが反応する場面は、今見ても恐ろしく、そして悲しすぎます。
『ゴジラ』のこうした場面を見れば、公開当時の日本人の戦争や核に対する恐怖や憤りが反映されているのは明白です。
山本真吾とのインタビューで、本多猪四郎はこう語っていました。
本多猪四郎「『ゴジラ』のときには、水爆というものの恐ろしさの象徴としてゴジラがあるという設定があることは確かなんでね。それと人間との関わりであるわけですから。民衆というものが、戦争という暴力にあったときに、いかに何らなすことがなく徹底的にいじめられるものであるかっていう片鱗だけでも、あそこに出ればと思ってね」―『「ゴジラ」とわが映画人生』ワニブックス
日本映画監督協会が制作した「わが映画人生 本多猪四郎 監督」(1990) でも、本多は坂野義光にこう語っていました。
本多猪四郎「僕が(戦地から)帰ってくる時にね、丁度、いよいよ負けて軍隊が引き揚げて帰ってくる時に、広島を通ったんですよね。(略)そういうものがやっぱり、気持ちの中にあるんですよね。原爆という物に関する憎しみみたいなものって言うか、こういう物作って、こんな物を次から次にやってたら、えらいことじゃないかという、そういう気持ちが、演出家としてね、あの『ゴジラ』を動かすのに……一つの迷いも出て来なかったわけですよ。(略)最初のあれ(ゴジラ)は人類の敵なんですよ。しかし、何やっても倒すことの出来ない動物なんてのは、原爆があったからこそ、生まれたんだよね」―『1954「ゴジラ」研究極本』ホビージャパン
どのような要因や経緯であったにせよ、広島・長崎の惨禍から僅か9年後に制作された『ゴジラ』には、原水爆の脅威を身近に感じていた「時代の空気」を映さずにはいられない何かがあった筈です。
1984年以降のゴジラ映画の「反核」メッセージがどこか取って付けた様な空々しさを覚えるのに対して、第一作『ゴジラ』の原水爆や放射能に対する恐怖が今も生々しく感じられるのは、このように「時代の空気」を違和感なく映画的に表現していたからだと思います。
怪獣映画としての卓越した演出と特撮。戦争や核に対する憤りのメッセージ。
そのどちらもが絶妙に折り重なって一本の映画として成立していることが、今日まで世界中の人々を惹き付けて止まない『ゴジラ』の不思議な魅力です。
同時に、東電原発事故以降は、黒澤の『生きものの記録』(1955) や『夢』のように『ゴジラ』も核の暗い影を避けて語ることは不可能になったと思います。
本多猪四郎が演出補佐として参加した『夢』と『八月の狂詩曲』(1991) は原発事故や長崎の原爆を描いていましたが、黒澤は反核がテーマと見られることを望んでいないような発言をしていました。黒澤自身が核兵器や原発に強く反対する発言をしていたにも関わらずです。
私の主観ですが、黒澤の姿勢と本多の『ゴジラ』に対する姿勢は、どこか似ているような気がします。
二人の映画監督にとって「反核」はあまりにも自明なことであり、ことさら自分から話すまでもなかったのではないでしょうか。それよりも、観客が映画を純粋に楽しんで感動することで、所謂「反核」的な訴えを感じてほしかったのかもしれません。
先述の坂野義光のインタビューに本多はこうも語っていました。
本多猪四郎「映画はスクリーンの上だけで対話するわけですから。いくらシナリオで素晴らしい感銘みたいなものがあったとしても、それがどう視覚化出来るかということをね。(略)そこは(文学とは)絶対に違うところなんですよ。もちろんシナリオが良くなければ駄目ですけども。シナリオというものがいかにスクリーンの上でお客さんが観たいというところが視覚化出来てるか」
『1954「ゴジラ」研究極本』
頭でこしらえた「テーマ」や「メッセージ」は表層的で忘れられやすいものです。それは、ただのプロパガンダに過ぎないからです。
ですが、映画から受けた興奮や恐怖、悲しみ、喜び、感動は、容易に消え去りはしません。そして、そこから自分で考えて行動していくことこそが長く残っていくのです。
目に見えるものを模倣するのではなく、目に見えないものを表現して人々を考えさせ感動させる。これは映画監督のみならず、全ての創作者の役割だと思います。
そのことを公開から70年経った今も『ゴジラ』は私達に伝えてくれています。
(敬称略)
参考資料(随時更新)
書籍、記事
『円谷英二の映像世界』 山本眞吾 編、実業之日本社、1983年
『怪獣ゴジラ』 香山滋、大和書房、1983年
「本多猪四郎監督から大森一樹君への伝言―あるゴジラ秘話」 大林宣彦、『キネマ旬報』1990年4月下旬号
「短期集中連載 3 成瀬巳喜男とその時代」 玉井正夫 著、山口猛 構成、『キネマ旬報』1991年12月下旬号
『伊福部昭の宇宙』 相良侑亮 編、音楽之友社、1992年
『日本映画批判 一九三二―一九五六』 双葉十三郎、トパーズプレス、1992年
『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』 佐藤健志、文藝春秋、1992年
『さらば愛しきゴジラよ』 佐藤健志、読売新聞社、1993年
『神(ゴジラ)を放った男 映画製作者・田中友幸とその時代』 田中文雄、キネマ旬報社、1993年
Easton, Thomas. “The nightmares change but Godzilla still reigns.” The Baltimore Sun, July 27, 1994.
Sterngold, James. “Does Japan Still Need Its Scary Monster?” The New York Times, July 23, 1995.
『『Shall we ダンス?』アメリカを行く』 周防正行、太田出版、1998年
Martin, J.J. “The Thunder Lizard Speaks! An Interview with Godzilla.” Cineaste, vol.XXIII, No.3, 1998.
『伊福部昭の映画音楽』 小林淳、ワイズ出版、1998年
『ゴジラとは何か』 ピーター・ミュソッフ 著、小野耕世 訳、講談社、1998年
『ポップ・カルチャー・クリティーク3 日米ゴジラ大戦』 青弓社、1998年
『宝石』 光文社、1999年6月号
『ヒバクシャ・シネマ――日本映画における広島・長崎と核のイメージ』 ミック・ブロデリック 編著、柴崎昭則・和波雅子 訳、現代書館、1999年
『伊福部昭・タプカーラの彼方へ』 木部与巴仁、ボイジャー、2002年
『伊福部昭 音楽と映像の交響 上』 小林淳、ワイズ出版、2004年
『伊福部昭 音楽と映像の交響 下』 小林淳、ワイズ出版、2005年
『ツレがうつになりまして。』 細川貂々、幻冬舎、2009年
『生誕100年総特集 黒澤明 増補新版』 西口徹 編、河出書房新社、2010年
『「ゴジラ」とわが映画人生』 本多猪四郎、ワニブックス、2010年
『グッドモーニング、ゴジラ 監督 本多猪四郎と撮影所の時代 (復刊版)』 樋口尚文、国書刊行会、2011年
『伊福部昭綴る 伊福部昭 論文・随筆集』 伊福部昭、ワイズ出版、2013年
『伊福部昭 ゴジラの守護神・日本作曲界の巨匠』 片山杜秀 編、河出書房新社 2014年
『伊福部昭語る 伊福部昭映画音楽回顧録』 伊福部昭 (述)、小林淳 (編)、ワイズ出版、2014年
『日本映画の海外進出 文化戦略の歴史』 岩本憲児 編、森話社、2015年
『ゴジラを飛ばした男 85歳の映像クリエイター 坂野義光』 坂野義光、フィールドワイ、2016年
『ゴジラ映画音楽ヒストリア 1954-2016』 小林淳、アルファベータブックス、2016年
『銀幕のキノコ雲 映画はいかに「原子力/核」を描いてきたか』 川村湊、インパクト出版会、2017年
『1954「ゴジラ」研究極本』 グループ研究極本 編、ホビージャパン、2023年
『大楽必易―わたくしの伊福部昭伝―』 片山杜秀、新潮社、2024年
『モノ・マガジン5-16号』 ワールドフォトプレス、2024年
『月刊シナリオ 10月号』 日本シナリオ作家協会、2024年
ウェブサイト、ネット記事
「伊福部昭コレクション」 – 東京音楽大学
「伊福部昭音楽資料室・伊福部昭を讃える音楽記念碑」 – 北海道十勝 音更町
「ゴジラ/怪獣王ゴジラ」 LD DVD & Blu-rayギャラリー
「ブダペスト四重奏団が1952,54年と続けて来日したワケ」 チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ 2014年5月27日
「【独自】米「ゴジラ」原爆批判のせりふ削除 国防総省の抗議で 2014年映画」 ジョン・ミッチェル 『沖縄タイムス』2023年1月21日
「ゴジラ介入なぜ起きたのか 明かされた米映画業界の実態 マーベルや料理番組にまで」 ジョン・ミッチェル 『沖縄タイムス』2023年1月21日
「『ゴジラ』4Kブルーレイのこだわりが本気過ぎる。高画質化や特典映像の裏側を関係者に訊く」(PHILE WEB 2023年10月21日)
「ゴジラ」から「ゴジラ-1.0」へ 本多猪四郎 時代への証言(ひとシネマ)
「第1回 ゴジラ前夜 日芸1期生からPCLへ」(2023年11月12日)
「第2回 なぜ自分だけが? 応召3度 軍隊生活計8年」(2023年11月17日)
「第3回 燃えた「G作品」 「ゴジラ」は原爆の象徴 反核運動と共に大ヒット」(2023年11月21日)
「第4回 最後の監督作「メカゴジラの逆襲」 黒澤明に請われ「影武者」で現場復帰」(2023年11月27日)
「第5回 「影武者」撮影秘話「勝新だったら……」 間近にみた黒澤明」(2023年11月30日)
「第6回 三船敏郎、黒澤明、八千草薫……葬儀にそうそうたる映画人 「天国に行くでしょう」」(2023年12月2日)
学校法人桐朋学園 桐朋女子中学校・高等学校
「ゴジラ 第一作(1954(昭和29)年)と桐朋女子 ―「平和への祈り」をめぐって―(1)」(2023年12月28日)
「ゴジラ 第一作(1954(昭和29)年)と桐朋女子 ―「平和への祈り」をめぐって―(2)」(2024年1月6日)
「ゴジラ 第一作(1954(昭和29)年)と桐朋女子 ―「平和への祈り」をめぐって― 補遺(1)」 (2024年3月12日)
「「ゴジラ 第一作(1954(昭和29)年)と桐朋女子 ―「平和への祈り」をめぐって― 補遺(2)」(2024年3月15日)
CD
「AKIRA IFUKUBE 完全収録 伊福部昭 特撮映画音楽 東宝篇1」 伊福部昭、東芝EMI、TYCY-5195/5196、1992年
「AKIRA IFUKUBE 完全収録 伊福部昭 特撮映画音楽 東宝篇9」 伊福部昭、東芝EMI、TYCY-5267/5268、1992年
「AKIRA IFUKUBE 完全収録 伊福部昭 特撮映画音楽 東宝篇10」 伊福部昭、東芝EMI、TYCY-5342/5343、1993年
50th アニバーサリー・ゴジラ・サウンドトラック・パーフェクトコレクション BOX 1
「ゴジラ」 伊福部昭、東宝ミュージック、G-001、2004年
「ゴジラの逆襲」 佐藤勝、東宝ミュージック、G-002、2004年
「キングコング対ゴジラ」 伊福部昭、東宝ミュージック、G-003-1/G-003-2、2004年
「モスラ対ゴジラ」 伊福部昭、東宝ミュージック、G-004、2004年
「三大怪獣・地球最大の決戦」 伊福部昭、東宝ミュージック、G-005、2004年
「ゴジラ オリジナル・サウンドトラック」 伊福部昭、佐藤勝、東宝ミュージック、GX-1、2004年
50th アニバーサリー・ゴジラ・サウンドトラック・パーフェクトコレクション BOX 4
「ゴジラ」 小六禮次郎、東宝ミュージック、G-016、2006年
「ゴジラVSビオランテ」 すぎやまこういち、東宝ミュージック、G-017-1/G-017-2、2006年
「ゴジラVSキングギドラ」 伊福部昭、東宝ミュージック、G-018、2006年
「ゴジラVSモスラ」 伊福部昭、東宝ミュージック、G-019-1/G-019-2、2006年
「怪獣の王★ゴジラ+α」 東宝ミュージック、GX-4-1/GX-4-2、2006年
「ゴジラ外伝-流星人間ゾーン-+α」 東宝ミュージック、GX-5、2006年
50th アニバーサリー・ゴジラ・サウンドトラック・パーフェクトコレクション BOX 5
「ゴジラVSメカゴジラ」 伊福部昭、東宝ミュージック、G-020-1/G-020-2、2008年
「ゴジラVSスペースゴジラ」 服部隆之、東宝ミュージック、G-021-1/G-021-2、2008年
「ゴジラVSデストロイア」 伊福部昭、東宝ミュージック、G-022-1/G-022-2、2008年
「ゴジラ2000ミレニアム」 服部隆之、東宝ミュージック、G-023、2008年
「伊福部昭/SF特撮映画音楽の夕べ★実況録音盤」 伊福部昭、東宝ミュージック、GX-6、2008年
「OSTINATO オスティナート 東宝特撮未使用フィルム大全集」 伊福部昭、東宝ミュージック、GX-7、2008年
「古代からの声 伊福部昭の歌曲作品/藍川由美」 カメラータ・トウキョウ、2023年
Blu-ray
『ゴジラ』 東宝、2009年
Godzilla. The Criterion Collection, 2012.
『ゴジラ 4Kリマスター Blu-ray』 東宝、2023年
核兵器・原発関連
「原発問題 全般」
「原発は安くない」
「原発と石油」
「原発は温暖化対策にはならない(原発も二酸化炭素を排出する)」
「東京電力福島第一原子力発電所は(津波の前に)地震で壊れていた (そして、津波は予測されていた)」
「東京電力福島第一原子力発電所事故の放射能汚染による被曝症状」
「除染の問題点」
「御用学者」
「原発とメディア」
「核(人体)実験」
「海外の脱原発」
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